ブログ村にてシンポジウムの感想をそれぞれ述べているが、どうもどのブログの感想もピンとくるものがない。私に感想を言わせたなら否定のオンパレードになってしまうが、先ず触れるべきは、二世が誰に指示されるでもなく自分の意志でこのシンポジウムを開いているのは、その内容がどうかということは別として喝采したい。口を閉ざして隠れ教会員として密かに生活している一世に比べれば雲泥の差がそこにある。そこが最重要であることに触れておいて、どうでもいい私の感想を述べるとすると、彼らが純粋すぎるのかこの世の人々が狡猾すぎるのか、二世は世間の風当たりの現実を全くわかっていない。人はどう思っていようが自分で信じて信仰しているのに何が悪いのか、という論理では説得に無理があることが全くわかっていないようだった。この世の離婚の多さの問題、家族間の繋がりの問題、そして少子化の問題など社会の問題にも幾らか触れてはいるが、「基本私がしたい信仰をさせて欲しい」が常に前面に出ていた。そして何よりも残念なのは摂理観が立っておらず参加した二世に摂理観はほぼ見て取れない。摂理観のない、個人や家庭の幸せのみを目的にする小乗仏教にも似た信仰観で、一世や親の二世教育は祝福を受ければ幸せになる位のことしか教えてこなかったということだろうか。この期に及んでシンポジウムなんか開いている時かと、教会に賛同的な人でさえ口に出すこんな危機的時期でありながら、私達が犠牲になってでも国の為世界の為に歩んだ事実を全く認めない宗教学者の辛辣な言葉に対して、苦笑して頷く程度の返答ではどうしようもない。正直、私は益々この教会のお花畑さに愕然としてしまった。教会の存続がどうかという以前に、この国の現実を訴え、そして憂い、私達が国の救いに全力を傾けている、その熱情を義憤と涙で訴える多くの食口が全面に現れてこない限り、所詮私達の教会、私達の信仰はこんな程度だったということなのだろう。勝共の勇士烈女、生命を捧げる成約聖徒は皆鬼籍となって地上には既にいないのだろうか。こんなところが私の感想と言えば感想なのだが、角が立たない二世だからこそやれることがあるのかも知れないが、私にはそんな路線で何とかできるとは思えない。最後に質問を宗教学者に投げかけた、女性評論家のあの迫力の押しは、多くの女性食口がかつて持っていたものだが、多くの一世が年老いた今となっては丸く小さくなったということなのだろう。
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