2025年7月12日土曜日

今日の想い 1393

 父は完全な認知症とまではいかないが、認知症ではある。昨日何をして何を食べたかは殆ど覚えていない。家族も親戚もちゃんと認識はしているし会話もちゃんとできる。しかし近々の事は忘れるし時々父の言動が周囲に大丈夫だろうかと思わせるような不安を抱かせる。既に90を超えているので当然といえば当然なのだろうが、そんな様子を覗かせた時、子としてどう対処したらいいのかわからない。父の子だからどうしても情けなさの感情が先に出てしまって冷静になれない。間質性肺炎を患っているし大腸がんで既にあちこちに転移している。腫瘍が大きくなって手術が必要なのだが、耐えるだけの体力はないので腸の一部にステントを入れて応急措置としたのだが、それが役に立たなくなったり腫瘍が破れればそれで終わりだ。それが明日かもわからないし数か月持つかもしれないし、と言うのが現状だ。6月半ばには既に肺炎なのに感染症を患いひと月足らず入院していた。担当医は介護も処置も必要なので緩和ケアの施設を紹介すると申し渡されたのだが、手がかかるとしてもできるだけ自宅で余生を送らせたいと思い辞退した。いざ退院して連れ帰ったのはいいが、この暑い最中寒いと言い出し冷房を消すならまだしも暖房を入れたようで、蒸せるような熱い部屋に父と母で座っていた。最初はリモコンのボタンを押し間違えたのかと思ったが、母によくよく聞いてみると寒いと言い出して暖房を入れるらしい。父は母の言うことなど勿論聞かないから、母は父の為すがままにして我慢するだけだ。私は情けなさで感情を抑えられず、父に対してどうしても言いつけるような説明や物言いになってしまう。そこまで言って聞くか聞かないかなので仕方がない部分もあるのだが、何とも後味が悪いし申し訳なさが残ってしまう。対するときは親と思わず幼少期の子供だと思って接する必要があるらしい。老々介護の悲惨さや介護の問題で傷害に至るような話はよく聞くけれども、自分が同じ立場に立ってみて、やもすれば何か仕出かさない訳でもないことがよくわかった。しかしこれもまた愛の訓練だろう。人間とは最後の一息まで愛の試練と訓練を受ける存在だ。それが終了と認められた時が息を引き取る時だ。それにしても高齢社会ニッポン何処へ行く、だ。高齢者の割合が人口の半分以上を占め、少子化で少ない若者に高齢者を養うための高い税負担を強いている。帰国して日本がこれほど高い税だとは思わなかった。今の日本は本当に希望が見えない。参議院選挙が間近だが、与党は国民に顔を向けていないと相当数思っているはずだ。

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