2025年7月16日水曜日
今日の想い 1396
私達は愛という言葉を簡単に使うように為に生きるという言葉も簡単に使っている。しかしその言葉の重さをどれだけ受け取っているだろうか。親は子供の為に生きる、その通りだ。それは親が子供を愛しているから子供の為に生きたいのであって、為に生きるべきとはならない。為に生きるべきとなるとそこに愛故にとはならない、愛の介在しない為に生きる風を装った戒めとはならないだろうか。他の為に犠牲になるという言葉は見ず知らずの者の為に犠牲になるということではないだろう。おそらく道徳的な意味で為に生きるという言葉をイメージしているのかも知れないが、み言葉が示す為に生きるとは、どこまでも為に生きるべきなのではなく、愛故に為に生きたいという人間の本然的な衝動を謳っているのではないだろうか。そうでなければ愛に供えられた犠牲とはならず愛に名を借りた戒めの被害者でしかないだろう。アボジが身を捧げたクリスチャン達に対して、犠牲になったその精神性の高みを賛美されなかったことも、おそらくその犠牲とみなされてきた行動に愛故の動機や衝動を見て取られなかったからだと思っている。良くも悪くも日本人の特性として協調姿勢があり、それは協調圧力にもなる村意識に根差しているが、教会内に於いても同じで御父母様の為にと銘打った中心者の言動の方向に誰もが従うのであり、それが当然為に生きることであるかの如くに先導される。しかしそれはどこかで立ち止まって真摯に自分の良心に尋ねるという総括するポイントを持つべきで、さもなければ雪崩を打って崖から川に飛び込んでいく豚の群れと変わらぬ現状になってしまう。私達は短くない信仰生活を通し一貫して、御父母様の願いであり御父母様の為に生きる行動としてアベルの指示に従ってきた。そしてそれは当然だと思ってきた。しかし振り返ってみて欲しい。活動はしてきたけれども私達の愛はより本質に近づいただろうか。愛故に活動してきたのであればどれほど誇らしく思える内面を満たし、それ故に霊的自信に満ちた魂として成長しただろうか。愛による主管圏の範囲をどれだけ広げることができただろうか。私達がアベル圏であるならこの社会はカイン圏であってサタン圏ではない。サタン圏、堕落世界呼ばわりしながら愛さず関わらずの立場を取り続けた結果を真摯に受け取らなければ、理想に向かって新たな摂理の旅立ちを始めることはできない。
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