この年の瀬の押し迫った中で、父は身罷った。10月半ば始まった入院生活からの70日、飲まず食わず状態になってからの40日、使命として課せられた日数を消化し、残り少ない呼吸を体全体でこなしながら、そして最後の息を引き取った。最期の数週間は瞼の閉じない両目を更に見開きながら、この世への意識は既に混濁していて息子の私すら意識の外だ。何かを天に認識しているのだろうか時折両の手を目いっぱい天井に差し出し、それは掴み取ろうとするようでもあり差し出そうとするようでもある。心拍数計器のチェックを言い訳に、その時がいつかを定期的に探りに来る看護師は、その時を認めたと判断すると動きは鋭敏を増した。肩のあたりを叩きながら耳元での呼び掛けをしきりに始め、胸をそらせながらひとしお大きな吸引動作を父に認めると、「よう頑張ったね。息子さんがおってくれて良かったね。」と父に言葉を残した。私に向き直ると丁寧に「先生を呼んできます。」と伝えて父のベッドを後に小走りに退室した。父の最期の闘いは三か月にわたったけれども、「なるようにしかならない」の口癖のように常に飄々とした自然体の父を思えば、これほどの真摯な状態をそれまで見たことがなかった。末期の大腸癌で腫瘍が腸を破るほどでありながら、それでも父に痛みはなかったし、そのまま静かに楽に引き取るのだろうと思った。しかしこの三か月は凄惨を極めた。全生涯のエネルギーをもって対するほどの闘いだった。酷なようだけれども、これこそが人間の真の姿だと思った。生と死の狭間でこそ人間の人間たる本質を問われる。
2025年12月31日水曜日
2025年12月29日月曜日
今日の想い 1431
和を以て貴しとなすと言う。日本人という社会は和を大事にする社会だ。それは決め事でそうしようとなったのではなく、日本人の在り様として本来そうなっているのだろう。俺が俺が、ではなく、周りに合わせて空気を読んで生きる社会が日本社会だ。教会とて日本の教会は日本人の集まりだから他の国の教会とは違い、アメリカでは思うことが言える自由の空気が溢れているのに対し、日本では思うところあっても周囲に合わせて自分を抑え、波風を立てないようにしている。日本人の優しさは和を大事にすることからくる優しさだろう。和を乱す人や行動に対しては、優しさの感情を否定して無関心無表情を装う。それが今まで何度も触れてきた日本の村社会であり村八分だ。無関心は怒りをぶつけるよりも非情だ。それは人格の否定だ。和を乱す存在に対しては信教の自由どころか生きて存在する自由すらあり得ないというのが日本人の感情だ。もちろん建前としては守られる法も言い分を許容する場もあるにはあるが、本音は違っている。どうしても教会解散に関することに筆が進みがちだが、そういうことを言いたいのではなく、実は日本人の優しさの正体を突き止めたいと思ってこの回は始めた。美徳としての柔和と日本人の優しさとの違いだ。日本人の優しさは条件付きであって美徳の顔をした方便に過ぎない。そう言い切ってしまうと断定になってしまうから、そういう場合が多いと言うに留めておく。今年は外国人問題が噴出した。敢えて移民と言わないだけの実質的移民は相当進んで侵入していて、こんな田舎町でさえも市役所に行けば外国人だらけだ。特に中国人の侵入は目を見張る。移民が問題になるのはその質と量が話題になりがちだが、受け入れる日本自体その準備ができていないことのほうを問題にすべきだ。実は島国日本は内的に未だに鎖国していて、国際社会を勝手にイメージしその幻想を抱くことで開かれていると信じている。しかし日本人は未だに鎖国状態だから世界と渡り合える言葉を持っていない。ユダヤ人の半数がイスラエル国外で生活しているように、日本人も相当数国外に出てチャンネルを持たないと鎖国意識は変わらない。文字通り日本の常識は世界の非常識だ。日本人の優しさが逆に世界から反感を買う。
2025年12月17日水曜日
今日の想い 1430
日本の教会は解散命令の問題が起こって以来UPFの会長が辞任し、そして今回教会長も辞任した。辞任したにしろさせられたにしろ世間は逃げているようにしか見ないだろう。代わりに就任する二世教会長は本音なのか冗談なのか外れくじを引いたと二世達の前で話して笑いをとる。前教会長は一段落ついたからと言うが、裁判の結果すら出ていない今どうして辞任なのか食口ですらわからない。新たな教会長が立ったとはいえ彼ができることは淡々と解散後の方針と指導を伝えることしかできないだろう。韓国本部は真の愛とどう関係があるのか既存組織の生き残りのことしか眼中にない。火を見るより明らかなこの現実にあえて目を塞いで、本部の指示に従うなら教会長を変えたとて希望はないだろう。献金にしろ祝福数にしろ数字に換算される実績はこれ以上ないほど提示してきたはずで、更なる数値目標が何の意味があるのかわからない。これからは心情の文化や芸術として社会に差し出すことで、或いは原理的な社会制度や経済対策を提示することでカイン社会が見上げて圧倒するほどの実績を見せればいい。二世は霊的血統の根として、真の父母に繋がっており成功の為の霊的DNAが備わっていると確信している。一世は二世以降の肥やしでしかないかも知れないが、二世の成功こそが一世の宿願であってその為ならどんな苦労も犠牲も払うだろう。しかしこのままの教会体制は一世の歩みの延長であって相も変わらず蕩減の穴埋めでしかないだろう。二世は本来、御父母様の勝利圏に与り蕩減は払われ、創造的歩みを為す後天開闢時代を牽引すべき立場のはずだ。二世は、信仰に特化して歩む教会を飛び越えて、真の愛への道を邁進して欲しい。
今日の想い 1429
愛の成就こそが地球という星の最終課題だと思うし、私達統一食口であれば真の愛が最上級に尊く、真の父母の真の父母たる所以は真の愛を地上にもたらす御方ゆえだ。しかしながら私達の愛に対するイメージはあまりにも陳腐すぎはしないだろうか。訓読は信仰生活の一環だ。訓読を通して愛に関するみ言葉は多くを知っているし諳んじることすらできるだろう。しかし愛の本質を呻吟してでも掴みたいという意志がいつからか欠如している。私達は優しい言葉を語る、怒ることを抑え行儀よく接する、やるなと言われることはやらない、そして外に外にと押し出されてきた反動なのか家庭の中で納まろうとする。サンデー食口として教会に繋がり、流石に地獄に落とされることはないだろうと高を括っている。そんな生活が、そんな歩みが真の愛を目指す者といえるだろうか。アボジはそんなこじんまりとした人間になることを願われたのだろうか。絵に描いたように道徳的な生活と教会に真の愛は芽生えない。混沌とした泥沼の中から純白の蓮の花が咲くように、喜怒哀楽入り乱れ善悪の混在した混沌の堕落世界だからこそ真の愛の花は咲くことができる。堕落だ非原理だと垣根をつくりその内側で安泰するのではなく、社会に飛び出し堕落圏の中から真の愛として咲かせる要素を集めて抽出すべきだ。極端な例をだすと性愛は堕落の花だ。しかし性愛も心情圏に接ぎ木させることで真の愛の花となる。真の父母に繋げることの本質は、ただ表面的な祝福を与えてよしとするのではなく、しっかりと真の根に接ぎ木させることだ。だから食口は教会内に留まらず泥沼の社会に飛び出し身を晒すことだ。そこで間違いを犯したり失敗することもあるだろう。しかし少々の間違いで堕落だ不信仰だとレッテル張りをしないことだ。祝福を通して霊的な本質に繋がった者は堕ちたところからそこを肥やしに立ち上がり飛翔する。祝福二世を信じるといいながら、やっていることは教条で羽交い絞めにして檻の中で飼い慣らしている。
2025年12月13日土曜日
今日の想い 1428
疲れずに頑張りなさい。そんなふうな言葉を昔かけて戴いたことがある。今はどうだろう。疲れたからなのか何なのか教会も食口も覇気は既にない。去勢された牛のように皆が皆おとなしい。今こそ闘うべき時なのに、敵なのか恩讐なのか最後の追い込みをかけられているのに恩讐を愛そうなどと言い訳を立てて一向に拳を上げようとはしない。男性が誘惑から逃れる為に視線を下げて歩み、アダムエバの教条を守るために相当の意識とエネルギーを費やしてきたものだから、去勢されたようにおとなしくなってしまったのはよくわかる。しかし女性にとっては男に媚びを見せる必要もないし、どれほど小汚く紅すら引かなくとも相対は与えられ、アボジを慕う一心さえあれば突っ走れる。この教会は女性が先頭に立つ教会であったことは間違いない。しかしあまりにも厳しすぎる献金路程に走り過ぎた。強い女性であっても流石に精魂疲れ果てている。では二世はどうかというと、一世の家庭出発が遅くなったものだから大抵の親は親というより祖父母の年代に近い。二世を孫のように育ててしまい、また中心からの願いに応えるのに必死でまともに子供に向き合う余裕はなかった。二世の成長期は放任されたままか、或いは教条的戒めを押し付けるかに偏ってしまって、家庭を飛び出した二世は活力があるのに対して、多くの二世もまた覇気はない。少なくない教会の賛同者は口を揃えて、この期に及んで闘わない私達食口こそが問題だと指摘しても、それでも私達は腰を下ろした牛のように動かない。闘わない時点で既に投げ出していると彼等にすれば思うだろう。もちろん声を上げる者も中にはいるが、そんなちらほらじゃなく皆が皆立ち上がり叫ぶべきなのに、私達の中に義憤という感情は失せてしまっている。殺されるほどの身の危険を覚えるか、少なくとも凍る海に突き落とされるかのショック状態を経験し、霊肉の眼が開いて光を放つほどにならなければこの群れは変わらない。もしアボジが御存命であればどんな指示を出されるだろう。責任者打ち首、一世は指詰め、となると食口は目が覚めて奮い立つだろうか。
2025年12月11日木曜日
今日の想い 1427
裁判も最終局面に入っていく。もし司法が最後通牒を教会に突き付けるなら、国の中では反社存在でありあぶれ者の集まりだと断定される。食口がどれほど体裁を装おうがお行儀よく生活しようが反社は所詮反社だ。反社には反社の生き延びる道はあるのだろうが、かといって今まで以上に生真面目で心優しく生きようとも世間に受け入れられることはない。国が反社と決め付けているのに国の取り決めに反して受け入れるほど世間は甘くはないからだ。おそらく食口の大半は分かっていない。これからどれほど生き辛い状況に追い遣られるか。この国を捨てるか反社然として覚悟を決めて生きていくか、そのどちらかだろう。結局最終的には国から追い出されるのかも知れないが、落ち着き先を用意できるまでは泥水を啜る覚悟はしておいた方がいい。大袈裟なと思うかも知れないがさてどうだろう。我々よりも前に反社と認められている存在がある。一般的に言われるところの暴力団だが、社会のあぶれ者が生き延びる道としての極道だ。極道連中を悪の実体と言えるのかどうか、というのは日本は暴対法がなかった時代の方がはるかに平安だった。彼等がいたからこそチャイニーズマフィアのような海外勢力をのさばらすようなことはなかったし、警察が動かない事案でも彼等に頼めば解決できることもあった。おそらく、あの暗殺事件にしても彼等の存在があれば起こらなかったかも知れない。蛇の道は蛇で、暗殺集団の動きは彼等でこそ情報を掴めたはずで、凶弾に倒れることもなかったように思える。まさか教会組織が暴力団になるとは思わないが、反社である以上隠れ食口として生き延びる道しか残ってはいないだろうし、そんな状況でどう子女教育をしていったらいいと言うのだろうか。試練によって信仰はより堅固になるというけれども、この状況でどれだけのまだ幼い食口が生き残れるかは甚だ疑問だ。私達の生き残れる逃避城は一体どこにあるのだろう。
今日の想い 1426
対外的には、私(私達)はもっと我儘でいい。怒りをあらわにしていいし、要求を叫んでもいいし、悲しみを訴えてもいい。それは別に社会や相手に対してのみならず教会に対してもだし、愛する御母様に対しても同じだ。前にも記したことがあるが、もし御母様にまみえることがあり言葉を許されるとするなら、取るに足りない自分であっても御母様にとって一人の子女として認めて戴けますかと尋ねてみたい。どれほど愛する愛が足りないとしても肉身の親以上に御父母様を愛した事実は否定できない。昔ある朝、急にお食事の要請が入り、断ることなど知る由もないものだから応じてしまった。しかし指定された時間まで2時間もない。ホテルまでの移動時間すら40分はかかるのに間に合うはずがない。案の定一時間遅れでホテルに辿り着いた。待ち切れず既にハンバーガーで済ましておられたが、それでも来たのだからと言うことで料理を提供した。私にとってはお食事をつくるのは最初だったものだから、お食事の後で御父母様のお部屋に挨拶に伺った。敬拝するにはしたが、御父様はソッポを向かれ一瞥だにされなかったし、御母様は御父様の無視された様子にクスクス笑っておられた。まだ若く信仰の幼い私にとって死ぬほどつらい出来事だった。それから何十回と提供してきたが、あの最初の対面の出会いは忘れたくても忘れられない。だからあれ以来私の中で常に尋ねている。私は愛されるに足る子女のひとりでしょうか、、と。知らんと言われれば去るしかないのだろうけれど、まだその当時、霊的な意味での私の親だという概念は私の中には育っていなかった。しかし肉身の親以上に実体的に愛するという路程がなければ、霊的な意味としては実らない。今思えばあの時我慢せずに言い訳でも嗚咽でもすればよかったと思う。そうすれば御父母様はどういう態度を取られただろうか。もし、という過去の仮定は意味を為さないとしても、あの状況で韓国食口の対応もアメリカ食口の対応も当然違ったはずで、そうなると御父母様の態度も当然違ったはずだ。今韓国教会も日本と同じような状況になりつつあるけれども、彼等の対応をしっかり観察し学ぶ必要があるだろう。少なくとも分派ではなく教会の中に居ながら教会体制に対して声をあげる食口も少なくはない。日本食口はもっともっと声を上げるべきだ。声を荒げたっていい立場だ。声を上げ行動に出なければ自分の分別すらできない。分別されて初めて神が取られるだろうし働くだろう。
今日の想い 1425
2025年12月5日金曜日
今日の想い 1424
私達が節理路程を歩んできて引き継いだもの、アボジから相続したものは別に教会が存続しようが解散されようが消え去るものではない。それは私達の心の中にあるというような、そんな慰めでしかない軽々しいものではなく、霊的な大河となり脈々と流れている。食口によっては何の苦労もなく涙も痛みもなく、飄々と歩んできた者も中にはいるのかも知れないが、多くの食口にすればこの世的平安と喜びを遮断し、トラウマにもなる地獄の歩みを貫いてきた。当然抱えきれない恨を抱え、乾ききって表情から感情もなくなるほどに涙も流してきた。それが苦労の百科事典だとアボジが言われるように教会食口の歩みだった。韓国は儒教文化だから教会も先輩家庭を重んじるのは当然だとしても、実績を要求されて前線で歩むのは一般食口であって、位置のある中心者は上意を下々に伝え、一般食口から実績を集めればそれで終わりだろう。そんな思いは今の今まで常にあり、誉は常に先輩方がさらっていくという何とも理不尽な思いに溜息が漏れた。しかしより苦労した者が最後には勝つのであって、その意味は本質のところの心情を受け取れると信じてきたし、それこそが摂理を担い歩む者の王道だと今では断言できる。先の者が後になり後の者が先になる、とは下の位置で誰よりも苦労すればこそ心情に通じ天に近くなるということだろう。昔、小岩あたりの商店街でタチカンしていて、しかし直ぐにもしょっ引かれ、ダンマリを決め込んだものだから鳩尾に何度かゲンコツを喰らい、痛みに耐えながらもこれで今日の実績は追及されないと安堵を覚えたことがある。教会が解散要求されて先ず思ったのは、これで当分は食口も献金要求はされなくなるということだった。私の個人的思いだが、教会も摂理の歩みもこの世に証できるような立派なものだとは思わない。謂わばこの世の欲を捨てた者達に契りを誓わせた、アボジを統領とするヤクザ稼業であって、しかし天のヤクザであって苦労すればするほどに何某かの天の心情を受け取り離れられないものだから、ヤコブの知恵で突っ走ってきた。解散がいいとは思わないけれども、一世にすればやがてはこうなることは推測できたはずだ。しかし蛇の道は蛇で、ロシアが生き延び北朝鮮がならず者国家でも生き延びているように、解散されようが私達には私達の生き延びる道も、さらにより大きくなる道さえもあるはずだ。御母様の心中は正直わからないが、あの無茶苦茶なアボジの元で生きてこられたのだから私達が騒いで心配するようなかよわい御母様ではないだろう。この世から見ればヤクザ稼業だからムショに入ってこそ箔が付く、と言えば炎上ものかもしれないが、「平和の主人、血統の主人」にあるように、太平洋の逃避城に住むマフィアとはどうも私達のことを暗示しているとしか思えない。この世の権威者が私達を罪人の集まり、マフィアだと印を押している。この世が罪人と認める私達は逃避城に逃げて住み、しかし世界が行き詰まれば人類が頭を下げて私達の法を活用するしかなくなる。マフィア達が忠臣の中の忠臣となり、聖人の中の聖人となり、王の中の王となり、私達の祖国光復とならざるを得ない。