対外的には、私(私達)はもっと我儘でいい。怒りをあらわにしていいし、要求を叫んでもいいし、悲しみを訴えてもいい。それは別に社会や相手に対してのみならず教会に対してもだし、愛する御母様に対しても同じだ。前にも記したことがあるが、もし御母様にまみえることがあり言葉を許されるとするなら、取るに足りない自分であっても御母様にとって一人の子女として認めて戴けますかと尋ねてみたい。どれほど愛する愛が足りないとしても肉身の親以上に御父母様を愛した事実は否定できない。昔ある朝、急にお食事の要請が入り、断ることなど知る由もないものだから応じてしまった。しかし指定された時間まで2時間もない。ホテルまでの移動時間すら40分はかかるのに間に合うはずがない。案の定一時間遅れでホテルに辿り着いた。待ち切れず既にハンバーガーで済ましておられたが、それでも来たのだからと言うことで料理を提供した。私にとってはお食事をつくるのは最初だったものだから、お食事の後で御父母様のお部屋に挨拶に伺った。敬拝するにはしたが、御父様はソッポを向かれ一瞥だにされなかったし、御母様は御父様の無視された様子にクスクス笑っておられた。まだ若く信仰の幼い私にとって死ぬほどつらい出来事だった。それから何十回と提供してきたが、あの最初の対面の出会いは忘れたくても忘れられない。だからあれ以来私の中で常に尋ねている。私は愛されるに足る子女のひとりでしょうか、、と。知らんと言われれば去るしかないのだろうけれど、まだその当時、霊的な意味での私の親だという概念は私の中には育っていなかった。しかし肉身の親以上に実体的に愛するという路程がなければ、霊的な意味としては実らない。今思えばあの時我慢せずに言い訳でも嗚咽でもすればよかったと思う。そうすれば御父母様はどういう態度を取られただろうか。もし、という過去の仮定は意味を為さないとしても、あの状況で韓国食口の対応もアメリカ食口の対応も当然違ったはずで、そうなると御父母様の態度も当然違ったはずだ。今韓国教会も日本と同じような状況になりつつあるけれども、彼等の対応をしっかり観察し学ぶ必要があるだろう。少なくとも分派ではなく教会の中に居ながら教会体制に対して声をあげる食口も少なくはない。日本食口はもっともっと声を上げるべきだ。声を荒げたっていい立場だ。声を上げ行動に出なければ自分の分別すらできない。分別されて初めて神が取られるだろうし働くだろう。
0 件のコメント:
コメントを投稿