裁判も最終局面に入っていく。もし司法が最後通牒を教会に突き付けるなら、国の中では反社存在でありあぶれ者の集まりだと断定される。食口がどれほど体裁を装おうがお行儀よく生活しようが反社は所詮反社だ。反社には反社の生き延びる道はあるのだろうが、かといって今まで以上に生真面目で心優しく生きようとも世間に受け入れられることはない。国が反社と決め付けているのに国の取り決めに反して受け入れるほど世間は甘くはないからだ。おそらく食口の大半は分かっていない。これからどれほど生き辛い状況に追い遣られるか。この国を捨てるか反社然として覚悟を決めて生きていくか、そのどちらかだろう。結局最終的には国から追い出されるのかも知れないが、落ち着き先を用意できるまでは泥水を啜る覚悟はしておいた方がいい。大袈裟なと思うかも知れないがさてどうだろう。我々よりも前に反社と認められている存在がある。一般的に言われるところの暴力団だが、社会のあぶれ者が生き延びる道としての極道だ。極道連中を悪の実体と言えるのかどうか、というのは日本は暴対法がなかった時代の方がはるかに平安だった。彼等がいたからこそチャイニーズマフィアのような海外勢力をのさばらすようなことはなかったし、警察が動かない事案でも彼等に頼めば解決できることもあった。おそらく、あの暗殺事件にしても彼等の存在があれば起こらなかったかも知れない。蛇の道は蛇で、暗殺集団の動きは彼等でこそ情報を掴めたはずで、凶弾に倒れることもなかったように思える。まさか教会組織が暴力団になるとは思わないが、反社である以上隠れ食口として生き延びる道しか残ってはいないだろうし、そんな状況でどう子女教育をしていったらいいと言うのだろうか。試練によって信仰はより堅固になるというけれども、この状況でどれだけのまだ幼い食口が生き残れるかは甚だ疑問だ。私達の生き残れる逃避城は一体どこにあるのだろう。
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