この不安に、耐えて耐えて、耐えて耐えて、ひたすら耐える路程がいつまで続くのだろう。死ぬまで終わることのない耐える道なのか、いや耐える路程の期間があってのち、何らかの新しい展開が始まるのか、一体私という肉体に起こっていることをどう捉えればいいのだろう。私の肉体に起こっていることと、私という存在との因果関係がどうなっているのか。わからないことだらけで尋ねる神霊のことごとくに声が届かず、それどころか顔を背けられ無視されたままでいる。ひたすら縦的に尋ねても答えは得られないと思えば、対処的横的な癒しを求めてしまう私がいる。そんなことで癒され解放されることなどあり得ないとわかっていながら、せめてこの傷口だけでも舐めてほしいと、その感情が傷を負った生き物のように、頑なな魂を揺さぶり続ける。老いて体が朽ちていくことは、この魂すら削られ朽ちていくことなのだろうか。穏やかな老後という期待は、ものの見事に裏切られ崩されてしまった。ひとり、またひとりと知人はこの世を去っていく。彼らは死に際して何を思い、何を祈り、何を死の向こう側に見ていたのだろうか。彼岸に期待をはずませていたのか、それとも生きることの執着を持ったまま連れ去られたのか。私のように昇華とは遠い、不安に苛まされたような不信仰者はいないのだろうか。今日も一日が暮れる。めっきり弱くなった西日の光が差し込んできたので、バルコニーに出て、雲間から差す僅かな温もりに両の手をかざしてみる。かつての、雄々しく堂々としたアボジの姿は、此の頃の私の内面に見届けることはない。私は糸の切れた凧なのか。私の魂は知らないうちに散り散りになるあの雲なのか。天の祝福を受けたあの誇りはいつから内面から去ったのだろう。天に繋がるあの誇りこそが魂を支える杖だったはずだ。また今日も日が落ちて不安な夜がやってくる。眠れない私との闘いがまた始まる。
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