2008年3月23日日曜日

昇華

唐突な知らせだった。それほどに病んでおられたという気配さえ感じなかった。真の家庭の犠牲が目に見える形となって認識されることで始めて自分の中に原因がなかったか内面を覗いて見ようとする。自分にも少なからず非が在ることは頭では理解できる。しかしそれが悔い改める魂の形にはならない。自分の中にサタンに蝕まれた塊が明らかに居座っている。更に悲しいことはそれを自分の一部としてあるのを当然のように受け入れている。そのことに罪意識を覚えたから教会に車を走らせた。夜10時からの祈祷会に参加してみようと思い立った。DCの教会まで車で40分。その間駐車できる場所があるかどうかしか頭の中にはない。いつも教会へ行こうとすればその煩わしさがある。車を並べられた道路沿いの隙間に自分の車を押し込み教会についた時は10時を大きく回っていた。16STREETの大通りに面したゲートはしっかり閉められていた。横に回って小さなゲートをくぐり裏戸に立つ。明かりは礼拝堂を照らしているようだが人の気配は無かった。時間を間違えたのだろうか。一分足らず躊躇して佇んだが意を決してベルを押す。窓から見える階段の下のほうから黒人の兄弟が真面目な顔で駆け上ってきた。不審なものではない表情を精一杯つくって開けてもらった。案の定時間を間違えたらしい。敬拝を捧げることを許してもらい礼拝堂に足を運んだ。静まり返っていた。誰もいない礼拝堂に自分の足音が響く。説教台を背にした一段低い場所に小さな腰までの台が設えられ40代には思えない疲れが感じられる子女様の遺影が置かれていた。寂しそうだった。対面して礼を捧げた。自分の意思ではない涙が頬を伝わった。涙が流れたことへの驚きの気持ちが湧くと同時に嗚咽が始まった。数年前、ただ一度の接点がある。ホテルでお食事を済まされた御父母様は席を外され後に孝進様が残っておられた。隣で食事の片付けをしていたから誰とはわからなかったが決して綺麗な言葉とは言えない物言いで誰かを責めるように話しておられた。それが止むと隣に来られ同じ口調で責められそうな気配を感じたが、それを大きく裏切り満面の笑顔で手を差し伸べられた。恐れ恐れ手を差し出すと慰労の言葉と共に跡がつくくらいしっかりと握手して下さった。後にも先にも接点はその時だけだ。涙が勝手に流れながらその時の情景がありありと映し出され子女様の生き生きとした表情が踊る。精一杯の強さや元気さを繕いながらも今前にしている疲れた小さな遺影に写る姿が本当の姿だったのかもしれないと思えた。しかし私の心の内を読まれたのか罪の思いを取り払ってくださるような当時の元気な姿を私に現してくださった。その思い遣りに触れての自分の涙なのか、それとも心情の隔たりを涙を流させることで縮めて下さったのか。他の兄弟が入ってくるのを見届けてお別れの敬拝を捧げた。

見えない価値を視る

み言を受け入れた一人の人間として生きることの意味を問うように、組織としての在り方の意味を問い理解することがそれを継続させること以上に大切なことだというのは誰にも解ると思う。生きるために食べるのであって食べるために生きるのではないように、願いを達成するために組織の運営が大切なのであり組織を維持することが第一義であってはならない。要するに我々が息を繋ぐ為の組織ではないということ。神様と父母様の願いを受けたみ旨としての組織なのか或いは儲けを出し生計を立てるための唯のビジネスとしての組織なのか、前者の歩みは聖業としてミッションとしての位置を与えられた立場であるのに対し後者は例えそこから献金を出したとしても或いはそこで働く従業員が教会活動に熱心であるとしてもその組織での歩みは唯のビジネスで摂理や神様との直接的関係性はない。人間として同じ肉体を持っているとしてもその内なる在り方で天地の差が出るように、組織として同じような業務をしているとしてもその組織の在り方、どういう夢や願いが根底にあって組織としての体をなしているのかでそれぞれに天地の差が出てくるはずである。肉体的なものが主体であるのか霊的なものが主体であるのかと聞かれれば誰しも後者と答える。しかし組織の在り方に於いては外的なものよりはその内的霊的なものに主体を置いて事に当たるべきだという認識に欠如している。ビジネス思考、ビジネス的という言葉には内的霊的な思考を軽んじる、外的に割り切って当然という思い込みが内包される。適当な言葉が見出せないがみ旨なのかビジネスなのかはその組織の方向性を180度異にする。勿論み旨を主体としてもビジネス的な采配は必要ではあるが軸足がどちらかによって大きく変わってくるということだ。例えば売り上げをあげることや利益を上げることに関してビジネス的に捉えるとそれは至極当然として方法論からの思考となるが、み旨的に捉えると組織に対する天の願いから鑑みて売り上げや利益を上げることの意味を先ず問うことになる。そしてその意味に合う形での売り上げや利益を上げる方法を見出そうとする。闇雲に売り上げ至上主義に走ったり或いは逆に世間通例の業態利益率に満足するということにはならない。み旨を組織のミッションと捉えることはみ言を土台とすることであり、ビジネス的ミッションを組織の根本に置けばこの世的言葉、この世的価値観を土台とすることである。今私が責任者として任されている店は父母様の願いを動機とし父母様の心霊で築かれた店であると確信している。もしこの店と引き換えに利益や売り上げが10倍以上あるレストランチェーンを得ることが出来ると言われても自分は応じない。数字では表せない霊的価値を私は認めている。

2008年3月22日土曜日

借金帳消し令

アメリカは金銭に対する感覚が麻痺して久しい。自分の働きに対する報奨対価として給与を受け取りそれに合わせて消費していくというのが健康的感覚である。要するに手元にあるもの以上は使えない。しかしやがて大きな買い物(家とか車とか)欲求に応える為に先々の収入予測を担保にして借金することを学ぶ。長期ローンを組めばその利子を含めると資産の二倍に借金が膨らむにも関わらずそれを返し続ける負債感覚はない。その感覚の喪失の大きな原因は商取引が現金授受に拠る必要がなくなったためにある。一桁二桁の小銭であろうが一生の収入に匹敵する九桁十桁の財産であろうが受け取るのも紙一枚であり払うのも紙一枚だと、そこに丸がいくら列挙されていてもその実感はない。電子取引だとその授受に人を介さない分、更に価値に対する感覚は麻痺してくる。子や孫の代まで払い続けないと返済できない金額を殆どの世帯が借金している。時が経てば資産は幾らでも膨らんでいくからというローン会社の宣伝に意図も簡単に騙され、軽いショッピングの感覚で契約書にサインする。ローン会社にしても貸す相手の信用度がどうかなど、手続きの上だけでのことでさして深い審査などしない。滞納すれば取り上げて他の者に売れば物件の資産価値が上向いている以上は問題ない。いくらでも転売できる。組んだローンも債権として幾らでも買ってくれるところがあるので資金も湯水のように入ってくる。バブル景気とはそういうものだ。金銭感覚を麻痺させる。借金することに何の引け目も感じない。借りないほうが損だとまで言い始める。とにかくバブルは弾けた。浮かれ呆けたまつりは終わった。羽目を外し過ぎた付けは大きすぎる。消費という酒を喰らい過ぎて金銭感覚が麻痺し、酔いがやっと醒めて残るのは莫大な借金。アメリカ経済が立ち直るためには唯一バブル前の資産価値分以上は債務カットすること、それ以外方法はない。しかしこれはめちゃくちゃな話でできるわけがない。だからアメリカ経済は崩壊するしかない。

2008年3月20日木曜日

恐慌突入

史上最高の莫大な損金をアメリカの金融機関は抱えている。2007年度12月決算報告では抱えている巨額の住宅ローン関連債権を自己査定で計上しているため損金の過小評価が甚だしい。年を越えて更に状況は厳しく損金額は既に自己資本を大幅に上回っている。損金を補填できる当てはどこにもなく金融マンモスの自滅を見届けるしか為す術がない。リセッションどころか放って置けば間違いなく恐慌に突入する。先日ベアスターンズの取り付け騒ぎが紙面を賑わした。もちろん住宅関連証券によるものだ。下落幅40%以上でいざ売りに出しても値もつかない。持ちこたえられる訳がない。前は80ドル以上もしていた株が下がりに下がって株30ドル、そしてチェース銀行が買収した値は株たったの2ドル。10ビリオンの会社が200ミリオンで買収された。大手証券がこの有様で他が問題がないわけがない。三月決算が報告され巨額の損金が表に現れてやっと事態の深刻化が国民にも国にも認識される。金融機関が氷河期のマンモスのごとく死に行くのを避けるため必要増資として株発行し勿論誰も買わないので国が高値で買うしかない。国がそのシェアを買って受け持つ意味は国有化を意味する。金融恐慌に入ると国の存続すら危ぶまれるので国としては恥も外聞もなく金融機関への資本投資のための金を刷り続けるしか方法はない。基軸通貨の維持などと言っておれる状況ではない。ドルは大幅に値を下げ外国の保有ドルが売り飛ばされアメリカは無意味にだだっ広いだけの国に成り下がる。しかしそれは希望的観測の範疇で世界的金融恐慌の底なし沼に足を踏み入れ地球村全体が息絶え絶えになる。

ビジネス信仰は正しいか

限られた食口という人材に頼っていては将来性はない。数に限りがあればビジネス展開はできない。よって外部の人材も登用できるシステムを作るべきである。と、こういう論法で既存の店は意味なしと捉えられ、この世のフランチャイズやチェーン店のモデルに憧れそれに合わせる形で進めようとしている。しかしそういうビジネスのかたちが本当に我々が夢見ているものと同じなのか、天の願いに適う代物なのか。よくよくイマジネーションを働かせて起こりうることを精査する必要がある。私は最初に記した展開願望にこそ深く踏み込んで見る必要性を感じる。根本にある想いが薄っぺらなものに思えて仕方ない。大きくなりゃそれでいいのか、という話だ。この世に対して或いはTPに対して見せるものがあるということが先ず必要なのか。自分が考えるにただそれだけの為に未来を築こうとしている。どう考えても世界の食糧事情を解決するためだとか環境整備であるとか健康的な食生活の提言であるとかTFの世界戦略を考えるとか、そういった内容どころか利益体制をしっかり作って摂理に貢献するという意識すら消えている。たとえ順調に事が運びシステムの構築がなされていくとしてもまとまった利益がはじける体制になるまで五年十年はかかると思う。それまで摂理は待ってくれるのか。事業に関わっている兄弟の意識が全体を動かしていく。我々の意識が父母様の願いと同じ方向に向かっているのかもう一度考え、祈って再出発する必要がある。動機は正しいとの思い込みで闇雲に進もうとするのは危険だ。

2008年3月13日木曜日

眠り

眠りと魂とは深い関係がある。別に身体を休める為だけに眠りにつくのではなく魂への補給が眠りの大きな役目だ。うちのは腎機能を悪くしたため造血作用をもたらすホルモンが分泌されない。そうなると慢性貧血の状態が続く。血液の在りようと魂の在りようは直結している。魂の成長を欠くと病的な血となるし逆に病的な血になると不健康な魂の在りようになる。慢性貧血になると不眠症になる。床についてもなかなか眠れない。外が白ける頃まで寝返りを打ちながら悶々と時間との格闘を迫られる。不眠症は身体が休まらないのが問題ではなく魂に必要な要素を十分に補充できないから問題となる。眠りの浅い人も魂の在りように何らかの問題を持っている。ひとは人生路程の中でさまざまな苦労や悩む日々を過ごす。度を超すと悶々としながら眠れない日々を過ごす。そういう時は魂を覆う表面的な感情に振り回されたりそれに溺れたりしている。その感情を主管できない。この世の内的外的事柄に執着すればするほど感情はいきりたつ。執着する気持ちを捨てない限り表面的な感情に左右され続け、その下の魂の深みに入っていけない。本来、神性あふれる宇宙の深みに深く沈んで霊的栄養素、霊的食物を魂は得る必要があり、それは深い眠りを意味する。宇宙の深み、神性の中に魂は滞在し安らぐ。深い眠りに沈んでしっかりと必要素を補充し瑞々しい魂に復活させる。その魂は深みから浮き上がってきて目覚めと共に身体という覆いの中に入っていき地上の活動を始める。

2008年3月10日月曜日

使命の本質

相当に悩みぬいていた日々ではあったが、誘われて教会に足を運び始めはしたものの、自分の救いがここにあるという目が覚めるほどの直感的な感覚が在った訳ではない。新しいことに対して臆病な自分が通い続け関係を深めていったのには別の力が働いていたと思う。それは皆の笑顔であったり孤独な一青年を理解してあげたいという懸命な頷きであったりまた、こそばゆい賛美であったり肩を組んで聖歌を歌う一体感であったりという兄弟姉妹としての心情深い触れ合いに引き付けられて来たということも言える。しかしそれは飽くまで表面的な事柄で、深層の魂の中で何かが突き動かされみ言葉に激しく向かおうとする流れを止められなかったと説明できる。それぞれの食口が伝道され復帰された折、何が自分を揺り動かし最終的にこの道を歩もうと決めた決定的条件が何であったか、皆それぞれ信仰年数が数十年の単位で通過した今、そこを思い出し魂に確認させることが必要だと思う。神様が神霊でこの自分に働きかけたその接点、そこに自分がこの道を歩む理由があり使命に対する鍵がきっとあるはずである。復帰されてからの少なくない期間、受動的姿勢を一貫して取りながら訓練を受けてきた。そして今その接点、原点に返って自分の使命を認識し、押さえつけてきた能動的心魂を表面に出し、そして直接的に神霊や絶対善霊と交わり授受しながら建設創造する過程に入っている。降りかかる神霊に魂が感化され新しい魂の活動が繰り広げられていく自分を発見すべき今、しかし多くの食口は眠りから醒めず受けることだけでアップアップの状態に未だある。これもやらないといけない、あれもやらないといけない、その意識と状態を続ける限り新しいステージに上昇することはない。願われることをモノとして受け取るとモノとしての発想に終始し、(無いモノ)で(あるモノ)を編み出そうと無理や矛盾が生じる。神様(或いはTF)が願われることの表面下には与えようとする大きな祝福がある。その祝福が理解でき感謝の想いが湧く頃には表面的な願われる事柄は形になりかかっている。ノルマだと言われ、それをそのまま表面的に受け取っても普通達成できない。それが魂が成長する福として次元を上げて受け取ることでノルマのモノより遥かに大きな心情エネルギーを生成できる。それが冷えて物質化すれば要求されるモノに変わる。しかし願いを祝福に昇華させる過程で心情の勝利基準が要求される。自分に与えられた使命を認識しそれを天の祝福として受け止めることが出来れば使命は自ずと満たされていく。

2008年3月5日水曜日

時の本質

人には人の時がある。生まれるに時があり結婚するに時があり、臥すに時があり死ぬに時がある。今が自分にとってどういう時であるか、大局的に計りながらそれに呼応できる自分になることである。どんなに泣き喚いて逃れようとしても、自分の置かれた時間と場は自分に必要として自分が選びもし、天も与えた環境だ。足掻けば足掻くほど溺れるが、覚悟を決め全てを甘受して対処すれば想像もできなかった世界に次元上昇する。思うようにはならない人生であると感じたとしても、天に繋がる自分の本質はそうなることを欲してその環境圏を作っている。その環境圏の時間と場を魂の成長の為に最大限に利用するか否かはそれぞれの個性体に委ねられている。過去の堕落因習に染められた観念でわざわざ捻じ曲げて見ている自分を取り巻く環境を、み言で築かれた理念で正しく見る目を養うと、隠されていた本質が環境圏の中に形を現しスッと魂の中にはいってくる。自分の霊肉の要素が今までとは違うもので形作られより多面的な世界の中で生きる。今置かれているこの時と空間を自由に利用しながら機が熟す時、そのチャンスを逃すことはない。富が押し寄せ、福が転がり込み、世界は自分のものとなる。得るに時があり失うに時がある。笑うに時があり悲しむに時がある。しかし神様との愛の因縁は自分の中で高く深く広がり続ける。親なる天の神様に繋がりながら多種多様の環境圏を泳ぎ続ける。一瞬一瞬の未来の環境圏を絶え間なく泳ぎ続ける。時は愛を与え受けるためのツールである。

2008年3月3日月曜日

血の在りよう

この世のヤクザでさえ義兄弟の契りを結び、血縁以上の繋がりを築く。自分の血が相手の身体の中にも流れ、相手の血が自分の中にも流れている感覚。痛みも喜びも義兄弟のそれを自分のこと以上に味わい、生命を賭することさえも辞さない。為に生きるとは親が子の事を想いただただこの子の為にという純粋な魂の在り様をいう。そこに駆け引きは微塵もないし、子の為に在らねばという縛りもない。為に生きるとは、為に生きなければという思いがある以上本質的な意味での為に生きる在り様とは違う。神様に対し、人類に対し、純粋なる為に生きたい想いを備えられたお方が真の父母だ。純粋培養の真っ白な為に生きる性品を備えた唯一のお方が真の父母であるなら、自分の在り様が不純なものから来たことが分かれば、その御方の子としての位置を得、同じ血統圏心情圏に繋がりたいという切実な想いに駆られてこそ本質を突いている。慕い侍ることを強く強くその度数を上げていくことでその血の在り様に近づいていく。祝福を受けるとはその血の種を受けることをいう。血の種をどう培養していくかは受けたものの責任としてそれぞれに任されている。種は貰ったが育てることに想いが至らない者は祝福の意味を理解していない。自分の血の在り様をよくよく観察する必要がある。祝福を受け真の父母を親として頂いた兄弟姉妹でありながら、なんと兄弟間の関係のよそよそしいことか、淡白なことか。血の在り様が薄い。それは祝福以前の問題とも言える。親が苦労をしているのを見て何も感じない。親の苦労の少しでも自分が引き受けたいという想いがみ旨を歩むことの根底にあるはずなのに、そうではないいろんな動機があるようだ。その辺からでも整理する必要が今の今迫られている。み旨の運動員だけで真の父母との関係性を結べる時は既に過ぎた。山羊か羊か問われる時が来た。その種を頂いたというだけに留まり、堕落の血の在り様に何ら変化をもたらさないなら、種を最初から頂かない方がその人に取って良かったかもしれない。