2008年10月30日木曜日
今日の想い 22
我々は本当に愛の群れだろうか。愛の動機で繋がれ、愛の道理で動く愛の群れだろうか。我々の歩み全般が、御父母様の真の愛に貫かれたものとなっていると言えるだろうか。我々の中にいつも、何々しないといけない、と考えていると言うことは、したいという思いが出てこない事が前提となっている。全てに於いて、このHAVETO意識で停滞し自主的能動的姿勢にはなれない。御父母様の願いが自分の願いであり、自分の願いが御父母様の願いだと言い切れる自分になっていない。自分が愛されていることを実感すれば、その愛に応えたいと思うのが自然で、その衝動が歩みの力となる。であれば自分は愛されていないのか。御父様は私を愛しておられないのか。そうではなく愛を受ける感性がないのか。それとも自分が愛を必要としていないのか。本当に愛が自分に流れてくるなら、愛されているという実感があるなら、それを他に与えようと思うだろうしそれに応えたいと思うはずだ。しかし敢えて次のように断言することが信仰の基だ。私は愛されている。御父母様も私を愛しておられる。確かに愛を受ける器にはなっていない。でも明らかに私も愛を必要としている。残念ながら、サタンが主管する堕落圏に我々はある。悲しいかな愛は直接的には届かない。堕落圏に於いては神様の直接主管圏にない。堕落圏から神様に会おうとすれば、愛の起点は自分にしかない。自分と神様の間に悪魔がその空間を支配していることを認めなければならない。そこを突破するには闘わざるを得ない。悪魔との戦いだ。私は愛されていると言い切り、そして歩み切る事の戦いであり、神様からの愛によってしか生きれないし、愛に生きるのでなければ生きる意味もないと悪魔の環境圏を捨てる事を覚悟する戦いだ。HAVETO意識からLIKETO意識に意識次元を上げなければ、節理完遂に向けて最後の聖戦に勝利できない。そうして真の愛が無条件に自分の内側に流れ込み、内的ビッグバンを起こす。与えたい愛したいという衝動が爆発的に起こる。個人に於いて、家庭に於いて、社会に於いて、全ての段階に於いて真の愛の衝動が連鎖的に拡張していく。
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