2022年10月26日水曜日

今日の想い 1201

 時の流れに身をまかせ

もしもあなたに会えずにいたら、私はなにをしてたでしょうか。平凡だけど誰かを愛し、普通の暮らししてたでしょうか。時の流れに身をまかせ、あなたの色に染められ、一度の人生それさえ捨てることもかまわない。だからお願いそばにおいてね、今はあなたしか愛せない。

歌:テレサテン 詩:荒木とよひさ

アボジアボジと内面で呼びかけながら一軒一軒たずね歩いた。来る日も来る日も、雨の日も雪の日もたずね歩いた。断られて足が重いと、自分で顔をひっぱ叩きながら足を進めた。アボジの名が世界に轟き、すべての民が再臨のメシヤとして受け入れると、、そう信じて耐えてきた。しかし旅の終盤を迎えた今、詐欺集団だと国民誰もが指さしている。人にも理解されず、天にも見捨てられながら、自分自身に問い続ける。誰も聞く耳を持たなければ、自分自身に問い続けるしかない。良心の応えを待ち続けるしかない。良心を裏切ったとは思わない。だから良心にたずね続ける。ひたすらたずね続ける。昔は地上を重い足をかかえてたずねたけれど、今は内面世界を重い足をかかえてたずね続ける。一度の人生は捧げたつもりでも、今尋ねるべき良心は愛せているだろうか。

2022年10月24日月曜日

今日の想い 1200

 ここに二つの言葉がある。一つはチャーチルの言葉、今一つはプーチンの言葉だ。

20歳までに共産主義に傾倒しない人間は情熱が足りない。20歳を過ぎて共産主義に傾倒する人間は知恵が足りない。-チャーチル

ソ連崩壊を残念と思わない者には心がない。しかしソ連を元通りに復元したいと望む者には頭がない。ープーチン

初期に復帰された食口は原理とみ言葉に傾倒し、これこそが人類が求めていた新しい真理であり、私の人生の願いと目的はこの神のみ旨にそって歩むことだとアボジに帰依し献身生活に入った。しかしみ言葉を受けた当初の高揚は、時を重ねるに従い恋愛にも似てやがて冷め、それでも祝福に希望をもち、家庭出発に希望を持ち、さらに子供を持つことに希望を持ち、それぞれのマイルポストを先々に見ながら歩んできた。でもいつしか当初の高揚は過ぎ去って、気付いてみれば沸き起こる自分の意志からではなく、指示され自己抑圧的な条件としての歩みとなり、そしてドグマと言われる教条主義に陥ってしまう。名の知れた大学の多くの学生達が共産主義にのぼせ上がったように、私達はみ言葉に燃え上がった。共産主義に傾倒した当時の若者にしろ私達にしろ、その思想をもたらし高揚させた背後の霊的存在がいる。もちろん行動するのはそれぞれの意志だが、思想からくる高揚の感情は受動的で感情を誘発させた主体的存在の地上への役事だ。後天時代の今明らかに世界は変わった。一世代前の霊的存在から新しい霊的存在が時代を引っ張る主体として立っている。私達は先天の既に去った霊的存在の対象であろうとしても無理なのであって、後天時代の感情や理解や判断が必要だ。これからの時代を牽引するのは二世達であって、教会の今後も摂理をどう見てどう判断するかも彼等次第だ。教会絶対の固い頭は解散命令と共に過去のものとすべきだ。教会が未来永劫必要なのではなく、時代の摂理を主体的に牽引する知情意の魂としての霊的柱を神は願っている。

教会の堕落と解散を身の引き裂かれるほどに悔しく思わない食口は心情が立っていない。しかし教会の延命にしがみつくのは新たな摂理的叡智を受け取ってはいない。

2022年10月22日土曜日

今日の想い 1199

 教会が生き残れるかどうかはこの際二の次であって、先ず考えるべきは二世三世が生き残れる環境をどう用意してあげるかであり、それ以前に生き残れるかどうかだ。ある二世は信仰二世の問題を身を賭して訴えているが、信仰を維持していようがいまいが、訴えている彼等彼女等も含めて、世間の目は厳しく色眼鏡で見るだろうし、世間の感情として触れたくないとか気持ち悪いだとか口に出さないまでもそういう感情を持たれてしまう。解散を訴え署名集めをして結果良しとなったとしても、そういう社会環境は変わらないどころか益々生き辛くなるのは目に見えている。被害が教会や家族からに限っていたものが、これから世間からの被害も受けるだろう。日本社会に根付く陰険さやイジメ社会を全方位環境から味わうことになる。そういった二世問題を容易に想像できない教会や一世であること、来世だけを夢見るお花畑の群れなのか中心者の言葉をどこまでも信じる幼子なのか、こんな純粋無垢と言おうか単純な群れが騒いだ尻拭いを全部後孫に負わせることになる。一世は独善的ヤコブの知恵で将来的尻拭いのことも考えずに実績追及の高揚に浮かれた。そうやって行動してきた結果をこれから直視していかなければならない。教会さえ生き残れば何とかなるという話ではない。責任者や指導部はそのことを真摯に天に尋ねそして考え、疲れ果ててしまった日本食口の精神復興、とりわけイジメ環境を生きていけるだけの誇りを持てる二世達の精神復興が課題になる。取り合えず金集めに奔走せずともよくなった現実だけは、言いなりだった奴隷から解放されたということだ。

今日の想い 1198

 マスコミもマスコミの決め付けをそのまま受け止める国民も、既に教会に対して穿った見方しかできないようになっている。偏った耳目に対してどんな改革案を出そうが説明しようが、彼等はあら捜しにのみ没頭し、出れば出るほど生贄として扱われ悪魔の燔祭に祭り上げられるだけだ。どうして責任者や指導部は正義の仮面を被った偽りの蛇たちの本質がわからないのか、わかっていてもその戦法を取らざるを得ないのか、私には教会の出方の方がまるっきりわからない。先ずこの期に及んで会見などすべきではない。生贄の供え物としてわざわざ出向く必要は全くない。悪神は神が裁くのではなく、悪神は別の悪神との利害の取り合いで潰し合う。その意味では放って於けばいい。もし会見するのであれば、教会の罪の部分と同時に功の部分もしっかり訴えて、その上で宗教法人格を返上して事実上の解散会見とし、追及することに嬉々としているマスメディアの拳のやり場を失わさせればいい。このままリングに上がり続ければより深みを追及されるのであり、ついには御父母様に及ぶようになる。暗殺事件の真相を阻む悪神が背後で跋扈しているが、殺人も厭わない連中との諍いはマスコミを操る者との間で必ず起こる。それも遠くない時期に起こる。既に利害関係が食い違ってきている。そのように死人は死人にまかせ、悪神は悪神に任せておけばいい。しかしながら教会が本来の摂理と大きくベクトルが変わったことが今回の一連の問題の原因になっていることはその通りで、打たれるには打たれるだけの原因がある訳で、しっかりと悔い改め葬るものは葬り本来の摂理的方向に舵を取る必要はある。この結果をもたらしたのは当然指導部でありながら、その責任逃れは甚だしい。このまま追及され続け、御父母様の非難にまで及ぶとしても陰に隠れたまま息を潜めるつもりだろうか。そうなれば真に情けないの一語に尽きる。この群れは真の愛から一変して真の悲哀に終わるのだろうか。

2022年10月20日木曜日

今日の想い 1197

 日本は今30年前に逆戻りしている。基軸通貨ドルに対して150円近い円安とはそういうことだ。世界は今、経済史を見る限り歴史を遡っている。コロナ危機による莫大な通貨補填が、金融歴史の最後の打ち上げ花火としてばら撒かれたのち、来た道を引き返すかのように金利を上げマネーを回収し、金融と経済の引き締め縮小に向かっている。コロナによるマネー増刷とウクライナ戦争による資源飼料不足で、少々の金融引き締めでは世界的インフレは収まらない。資源高も物価高も度を越えていて、西欧ではこの冬を超せるかどうかという声さえ聞こえてくる。来月には米中間選挙があるので今のところ株も債権もコモディティも全下げの中、それでも躊躇下げでの様子見だが、ウクライナ戦争の出口への動き、金融引き締めの出口への動きが選挙後にあるのかどうなのかが焦点になっている。それを踏まえてロシアが経済覇権を握るべくどう動くのか、中国はどうか、戦時ではあってもそれぞれの手口を探りながら息を潜めている。戦略核使用の危険度は今最大に増しているし、台中戦争の勃発危機も同じように増している。すべては経済の覇権を握るために動いているのであり、ドル覇権からの金コモディティリンクによるロシアルーブル覇権、一帯一路構想による中国元覇権がしのぎを削っている。台湾の半導体技術や尖閣諸島を含めての領域に埋蔵する油田や資源も喉から手が出るほどに欲しているのが中国だ。東西の経済覇権の地図が塗り替えられるようになるとドルリンク通貨がハイパーインフレとなり一気に紙屑化される危険が生じる。石油産出国は既にアメリカの言うことを聞かないのであって、石油産出国家をアメリカが主管してのペトロドル覇権であれば、今のドル高が砂上の楼閣であることは見えている。アメリカ追随の日本は、日本経済を犠牲にしてでも円安を維持して、世界最大の債務国のドル債権をキープし更に買い足しながらドル基軸を支えている。しかし既に砂上の楼閣であるドル基軸をいつまで支え続けることができるだろうか。経済史が遡るとなると、いつか来た道を逆に拾っていくことになる。そうなるとアメリカの次なる大きな動きはドルの暴落か暴落を予知して打つ為替介入による極端なドル安か、要するに行きのプラザ合意からの戻りのプラザ合意2だ。

今日の想い 1196

 この世であっても、借金までして推しメンに賭け、それこそ何百万というお金をホストに入れ込む女性もいる。高額献金が洗脳された結果であるなら、そういった女性達も同じように洗脳されているだろう。ギャンブルに入れ込む者達は見返りを求めての行動だが、金銭的見返りを求めない投入は洗脳されているからだろうか。洗脳という言葉は自分が判断することが出来なくされて誰かに依存し、或いは主管されて言いなりになるという意味だと思うが、その意味では平和憲法信奉もどこまでもそれに依存する洗脳だろうし、メディア信奉も垂れ流される方向付けを自分の判断とする洗脳だろう。要するにホスト通いの女性達も、平和憲法固辞の左派系人も、メディアの報道と判断を鵜吞みにする国民も、みな洗脳を受けている。左派系がいう洗脳という言葉を使うから左派系に主管されるわけだが、唯物思想こそが洗脳する主体であって、洗脳されている唯物主義者から洗脳されていると言われるのは実に腹立たしい。唯物主義者の辞書には信仰という言葉はない。洗脳されているので内面世界の信仰という精神的言葉を理解する精神性が欠如している。だから信仰を似て非なる洗脳という言葉で理解したつもりになっている。もちろん信仰にもありとあらゆる位相があって一括りにすることはできないが、しかし如何にも一括りできて、洗脳という言葉で理解したつもりになっている。しかし所詮地上という平面世界でしか跋扈できない彼等に、霊的な立体世界に生きる人々を評価し、彼等の基準でどうこうしてしまおうとすること自体が無理なことで、彼等の所業は遠からず計算が狂ってくる。情けないのは国の中心である国会や行政府が彼等の言いなりになっていることで、彼等の計算狂いを国にまで広げてしまって、日本という国自体が詰まっているということだ。どれだけ日本が危険な状況なのか、全くわかっていない。

2022年10月15日土曜日

今日の想い 1195

 過ぎてみれば愛だったというアボジの言葉は、過ぎてみればそうなのだが、その只中ではとても愛とは思えないという意味だ。働けどはたらけどなお、我がくらし楽にならざり、ではないけれども、もういい加減疲れ果てているのに、私の平安はいつ訪れるんだ、地上天国は一体いつ為されるんだと愚痴の一つも口を突いて出てくるだろう。献身するときは、三年で天国はできると当然のように言われて年数を数えてきたけれども、今となれば騙されたということになるのだろうか。親にもそのように言って、三年だけ好きなようにやらせてくれと言って出てきたから、親こそ騙されたと思っている。何をもって地上天国の完成というのか、おそらく誰に聞いても明確には答えられないだろう。そんな誰も答えられない理想を掲げてここまで来たのであり、借金や破産までして摂理に応えようとしたのであり、確かに周囲から見れば狂った人種で不気味にさえ覚えるのかもしれない。その国民的恐れが解散命令の大合唱に繋がるのだろうか。思うに人間が地上に生まれるには宿命もあり使命もあるのであり、もし真の愛の地球村となり地上天国が完成して果たすべき摂理的使命がないのであれば、もはや人間が地上に生まれる意味があるのだろうかと思ったりする。人類が地上にいるということは、未だ地上天国完成を見ないその途上だということだろう。創造原理に正分合作用というのがある。正はわからずともあらゆる状況で右と左に分かれているのはわかる。私の立ち位置が変わる毎に必ず相反する存在が現れる。私の内外に関わらずこの世を去るまでその攻防が続く。同じように家庭、社会、国、世界に於いても常に何らかの攻防があり続いていく。様々な相反する攻防を続けてきてついに地上を去る時、過ぎてみれば愛だったと、正分合の合の結論として天に報告できる私でありたいが、これからもっと核爆弾級の攻防戦が待ち受けているのかもしれない。

今日の想い 1194

青いお空のそこふかく、海の小石のそのように、夜がくるまでしずんでる。昼のお星はめにみえぬ。見えぬけれどもあるんだよ。見えぬものでもあるんだよ。 金子みすゞ

見えないものに対する存在を感じ取り、さらにその生命を感じ取り、そしてさらに叡智や心情や意志さえも感じとれれば、それは普通に感知できる地上の存在に対する以上に関わりを持つのであり、更には私の輪郭を突き抜けて交わり一体化できるほどに感じ取って私の中に組み入れる。私には、様々な苦労を経ながらその中で関わりあった多くの先人達や天使達が私の中に住んでいる。内的霊的勝利とはそんな彼等の叡智、心情、意志を私の部分とし、人格成長すなわち個性完成の段階を登っていくことだ。多くの善なる霊人達に相見える為には、平安や享楽の歩みではなく数々の不安と苦難の歩みでこそまみえることができる。自分と自分の状況を抜け出そうと必死になるからこそ善なる霊人達が訪ねてくる。苦労させればさせるほど霊的宝物としての霊的共助を得るのであり、その意味では恨みに思えるほどに苦労させてきたアボジは日本食口を誰よりも愛してこられたという逆説が成り立つ。そんなアボジに対する私達は、当然のこととして国上げての非難による苦労の中に歩んでいる。私達のこの状況の中で藻掻き苦しみながら、相対することのできる民族神霊を探し求めている。いつしか日本を護っていた民族神は日本人に愛想をつかして離れ去って久しい。今や日本が凌辱されても仕方のない裸のエバであることは確かだ。この日本が神日本として立つ為には日本食口の国家的蕩減が必要であり、蕩減期間を超えて授けられる民族神霊が必要だ。それは地上人の善悪思考や感情を超えて働く神の摂理であり、アボジと共にある神霊達はアボジと共に歩んだ日本食口を捨て去ることはありえない。新たな日本は日本食口が必ず建てる。

2022年10月10日月曜日

今日の想い 1193

かつてないほどの注目を浴びている。決して気分のいい注目ではないけれども、それでもこれほどの注目を浴びたことはないだろう。会見すれば何を語るのか、日本国民が固唾をのんで見守っている。腹の座った食口であるなら、今こそ摂理を知る者として伝えるべき言葉を叫ばせてくれと思うはずだ。ここまで印象を悪くしたのであれば、或いはメディアによって印象操作されたのであれば、少々の改革案を出したところで言い訳としか受け取らないだろうし、解散命令以外このカルト宗教団体に突きつけるものはないという感情的結論を既に出していればなおさらだ。であれば今この時こそ決死の覚悟で、要するに解散覚悟で、平和ボケした日本国民の前で、善人面しながらイジメて潰すことしか考えていないハイエナメディアの前で、み言葉に流れる犠牲精神の何たるかを、そしてそのように行動してきた事実を誇らしく叫べばいい。教会や食口が犠牲になろうとも、それでも平和ボケでイジメることでしか自己認識できなくなった国民に、かつてない国家存亡の危機へ目を向けることを訴えればいい。一億の献金どころか国家の為なら生命も賭す覚悟を訴えればいい。もし数人だけでも神霊を受け取る視聴者がいるなら、その叫びが彼等の魂に届き真の愛のシードとして受け取り目覚めるはずだ。犠牲を供えずに愛を叫んでも、それは真の愛ではない。真の愛でなければ改心させる力はない。形而的言葉を失い精神性を捨て去った日本民族は、民族の誇りも意味も知らない唯物主義者の集団でしかない。打てども響かず、叫べども応えずの群れかも知れないが、それでも死生決断で訴えれば天は聞いてくださるはずだ。しかし責任者の中に未だ気概を備えた者が数人でもいるのだろうか、、。

2022年10月8日土曜日

今日の想い 1192

 特派員協会に於ける元祝福二世の会見を見た。おそらく彼女の悲痛な叫びは記者達にもスクリーンの向こう側の視聴者達にも届いたはずだ。論理ではなく感情に訴える、そこに作為的な意図は感じられなかったので尚更届きやすい。それに比較して形だけの謝罪で始まった教会の会見がなんと白々しく見えたことか。教会側の間違いは此の期に及んで未だに原理的と言われる善悪基準、善悪振り分け意識の囲いを取らないままメディアに対し臨んでいることだ。聞かれることに論理的返答を得たいが為の質問だと捉えているが、答える相手は人間であって感情が先立っているのであって、ただの憤りなのかそれとももし義憤であるにしてもその感情に寄り添い納得させる返答が要求されている。しかし悲しいかなどんな説明や解決策であっても感情に寄り添えない限り彼等は納得しない。納得しないどころかより憤りの感情を燃え上がらせてしまう。私が見る限り会見した彼女には死を乗り越えた覚悟が備わっている。生死を超えて覚悟した者がどれだけ強いかは、み言葉を知る者であればわかりそうなものだが、会見中途で送られた教会側のコメントが全く場違いなものであるように、これで教会側には心情主義のみ言葉が中心的柱ではないことが露見したことになる。教会や現役食口は彼女の会見をサタン的な行動として善悪振り分け意識で裁くのだろうか。私はどうかというと、神様は彼女に教会以上に寄り添っていると信じている。それは彼女の方がより犠牲的でありより覚悟が強いからだ。少なくとも教会の責任者よりは天の心情が立っている。反教会であるとしても神霊の多くは彼女と共に居ざるを得ない。論理や立場は愛の権威を認めさせるカードではあっても、土台に愛の犠牲的精神がなければカードを使えば逆効果で権威だけをひけらかす悪神となる。教会は今悪神を演じている。しかし教会の責任者達はその認識がない。今は教会を否定してでも愛の権威を立てるべき時であるのに、霊的に目耳が塞がっているのかその認識がない。

2022年10月3日月曜日

今日の想い 1191

教会は苦労の百科事典だと言われたアボジの言葉を、最大に具現化してきたのが日本食口だろう。身も心も、なけなしの万物まで全てを捧げ続けた結果が、生活に困り果てるほどの現状であっても、それでも離れずに付いてきた。そこまで差し出しても栄光の喝采を得るでもなくましてや援助があるでもなく、更に追い打ちをかけるように事件からの教会批判に晒され、カルトとまで言われれば信仰に捧げた人生そのものを否定されたに等しい。追剥ぎに着ている服まで奪われ、更に心まで奪われてしまって空っぽの内面まで抱えているということか。アボジに帰依して、ただ願われた摂理路程にのみ忙しく、わき目も振らず季節も知らず時間を駆けてここまできたが、事件という躓き石に阻まれて初めて立ち止まり、立ち止まってみると初めて周囲の状況が見渡せるのであり、相対的にみて極めて独善的な、地に足がついておらない私達だと無理にではあるが認識させられている。それでも私達は地上天国という竜宮城に向かって歩み続けていると信じていた。すでに竜宮城に辿り着いて天国生活を謳歌した訳でもない。理想を遠くに捉えるでもなく、道中で強制的に玉手箱を目の前に置かれ、そして世間の圧力で蓋を開けてしまい白煙を浴びた。摂理に歩んだ過去の歩みの全てを、全国民の非難の怒号として浴びると一瞬で否定され、老い先短い力ない老体だけが世間の目に晒されている。今私達は全日本食口まとめて総括の時を迎えている。総括とは先天時代の歩みの否定肯定含めて清算であり、先天の私の死だ。しかし死は霊を知らない者達の観念であって、事実は新たな生への昇華だ。ありとあらゆる中傷罵倒を浴びながら私達は死、いや昇華を迎えて、後天に生きる新たな生の誕生を経験する。霊的に見るなら私達は二度目の生を生きようとしている。自己否定し、霊肉の父母からも否定され、更に国からも否定された全否定の死の位置から、新たに生まれて全肯定の立場で復活人生を生きる。