教会が生き残れるかどうかはこの際二の次であって、先ず考えるべきは二世三世が生き残れる環境をどう用意してあげるかであり、それ以前に生き残れるかどうかだ。ある二世は信仰二世の問題を身を賭して訴えているが、信仰を維持していようがいまいが、訴えている彼等彼女等も含めて、世間の目は厳しく色眼鏡で見るだろうし、世間の感情として触れたくないとか気持ち悪いだとか口に出さないまでもそういう感情を持たれてしまう。解散を訴え署名集めをして結果良しとなったとしても、そういう社会環境は変わらないどころか益々生き辛くなるのは目に見えている。被害が教会や家族からに限っていたものが、これから世間からの被害も受けるだろう。日本社会に根付く陰険さやイジメ社会を全方位環境から味わうことになる。そういった二世問題を容易に想像できない教会や一世であること、来世だけを夢見るお花畑の群れなのか中心者の言葉をどこまでも信じる幼子なのか、こんな純粋無垢と言おうか単純な群れが騒いだ尻拭いを全部後孫に負わせることになる。一世は独善的ヤコブの知恵で将来的尻拭いのことも考えずに実績追及の高揚に浮かれた。そうやって行動してきた結果をこれから直視していかなければならない。教会さえ生き残れば何とかなるという話ではない。責任者や指導部はそのことを真摯に天に尋ねそして考え、疲れ果ててしまった日本食口の精神復興、とりわけイジメ環境を生きていけるだけの誇りを持てる二世達の精神復興が課題になる。取り合えず金集めに奔走せずともよくなった現実だけは、言いなりだった奴隷から解放されたということだ。
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