2022年10月8日土曜日

今日の想い 1192

 特派員協会に於ける元祝福二世の会見を見た。おそらく彼女の悲痛な叫びは記者達にもスクリーンの向こう側の視聴者達にも届いたはずだ。論理ではなく感情に訴える、そこに作為的な意図は感じられなかったので尚更届きやすい。それに比較して形だけの謝罪で始まった教会の会見がなんと白々しく見えたことか。教会側の間違いは此の期に及んで未だに原理的と言われる善悪基準、善悪振り分け意識の囲いを取らないままメディアに対し臨んでいることだ。聞かれることに論理的返答を得たいが為の質問だと捉えているが、答える相手は人間であって感情が先立っているのであって、ただの憤りなのかそれとももし義憤であるにしてもその感情に寄り添い納得させる返答が要求されている。しかし悲しいかなどんな説明や解決策であっても感情に寄り添えない限り彼等は納得しない。納得しないどころかより憤りの感情を燃え上がらせてしまう。私が見る限り会見した彼女には死を乗り越えた覚悟が備わっている。生死を超えて覚悟した者がどれだけ強いかは、み言葉を知る者であればわかりそうなものだが、会見中途で送られた教会側のコメントが全く場違いなものであるように、これで教会側には心情主義のみ言葉が中心的柱ではないことが露見したことになる。教会や現役食口は彼女の会見をサタン的な行動として善悪振り分け意識で裁くのだろうか。私はどうかというと、神様は彼女に教会以上に寄り添っていると信じている。それは彼女の方がより犠牲的でありより覚悟が強いからだ。少なくとも教会の責任者よりは天の心情が立っている。反教会であるとしても神霊の多くは彼女と共に居ざるを得ない。論理や立場は愛の権威を認めさせるカードではあっても、土台に愛の犠牲的精神がなければカードを使えば逆効果で権威だけをひけらかす悪神となる。教会は今悪神を演じている。しかし教会の責任者達はその認識がない。今は教会を否定してでも愛の権威を立てるべき時であるのに、霊的に目耳が塞がっているのかその認識がない。

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