ではお前はどうなんだと、当然口にした端から矢面になることは重々承知だけれども、自分が同じ言葉で非難されることも勿論承知だけれども、それでも口を閉じることはできない。私達は神様から幸せかどうかを問われている訳ではない。感謝しているかどうかを問われている訳でもない。問われているのは如何に摂理への責任を持ち、どう行動しているかを問われている。教えをしっかり心にとめ守っているだけでは信仰による自己満足の域をでないのであって、そんなことは進めるべき摂理に対する責任と行動の前にはあまり意味を為さない。すなわち摂理という大善に集中される生きた神との関係性は成り立たない。信仰の道に入りたての教育期間であるならそれも大事なのかも知れないが、信仰生活ウン十年でありながら、未だに信仰のイロハの段階であるなら選ばれて神から期待されている立場にはない。独生女御母様云々に批判の目を向ける以前に、アボジはどうして清平摂理、献金主義へとベクトルを取られたのだろうかという問いかけや、それによる食口の摂理観欠如との関係性は大きく関心あるところだが、それだけ食口達の蕩減は重かったという仮の結論で納得させてはいる。がしかし、摂理観が立ち、摂理への責任に対する感情と意志を持つ食口が数名でも立つのであれば、神は彼等をして摂理を進めていくのであって、そうなれば教会が解散命令を受けるとしても何の問題もないだろう。返す返すもこんな言い掛かりでぺしゃってしまい、ただ傍観しているだけの教会も食口達も、何よりも自分自身が情けない。
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