2024年10月24日木曜日

今日の想い 1336

各自が霊界を背負っている、という言い方をアボジはされていて、死後に住まう霊界という世界が地上のような私という一住人を含む生活の場という感覚ではなく、私の霊界は私自身が築き上げて背負っているのであり、その中で霊的生活をするとイメージすればいいのだろうか。死の門を超えると準備期間の後に私自身が私の内面に入って内面が霊界様相となっているとシュタイナーは言っている。その記述とアボジがいう各自が霊界を背負うという言い方は同義語であるように思うのでおそらくそうなのだろう。そうであれば私の内面が重要であり、外の環境に対して善だ悪だ快だ不快だと思うに留めるのではなく、その外的環境と自分の内面との関係性を捉えて内外両面刺激し合いながら、すなわち授受しながら地上天国を築き天上天国を築いていくということになる。私の内面が正しく善悪分別されてカインアベルの関係性を秩序立てているのか、或いは善悪入り乱れて混沌状態にあるのかはしっかり見届けないと肉体を脱いだ時に混沌地獄の様相に甘んじなければならない。この世は悪だと言い放って恰も自分が全き善の存在であるかのように切り捨て遮断している食口も存在するが、環境に悪が存在するのは自分の内面にも相対するものがあるから存在しているのであり、その環境の在り様を否定するのではなくどう折り合いを付けるのかが問われていると思う。その意味で独善的側面があまりにも強かった先天の歩みだったと反省し、環境や人に対してみ言葉で断罪するのではなく、どうすれば理解できるだろう、引き上げてあげられるかという寄り添いも極めて重要だと思っている。具体的に地上天国を模索するなら、金銭問題やアベルカイン問題、もちろんアダムエバ問題に対しても、問題の只中に入りながら、言い方を変えれば自分自身が問題を抱えながら、同列の人々を復帰する為の呻吟を潜り抜ける食口も必要ではないかとさえ思っていて、堕ちた堕落したと吐き捨てるのは正しいとは思わない。

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