父の納骨を済ませてきた。先週の予定だったが、大雨の情報が入って一週間延ばした。墓苑の事務所にも連絡しお寺さんにも延期を連絡しての今日だったが、やはり一雨来そうな空模様で、父は雨男かと思ったが事無く納骨式を終えることができ私も母も一息ついた。読経されるお寺さんの後ろで所々挟まれる南無阿弥陀仏の反復だけは合わせて声に出したが、それは読経されるお寺さんへの配慮でしかないという思いと、この念仏で父が成仏するなら届いてほしいという思いとがあり幾分複雑だった。風邪をこじらせたのか数日前から微熱と咳が止まず、納骨式の間は汗が滝のように上半身から流れ出た。汗と涙で霊を洗い流せば新たな出発ができる。そう思い直して、もがけどもがけど出口の光が見えないこの年の運気を、今日を転機に何とか上昇運へと変えていきたい。この世に生を受けた以上この世での使命がある。教会が解散すれば摂理が止まるわけでもないし、教会からくる指示だけが摂理的使命でもない。運気は使命感の認識如何によって掴むこともできるし手放しもする。使命感の欠如が今の状況を引き付けていると、そう読み取るのが原理的だろう。短い読経が終わるとお寺さんは丁重なお悔やみを母に延べ、母はそれに感謝の意を返し、前もって渡しておいた布施を袱紗から震える手で取りだし渡した。私はこの場で解散する失礼を述べてお開きとなった。もちろん近い一周忌にはご足労願うことは伝えておいた。教会には儀式がある。そしてこの世にはこの世の儀式がある。儀式を挙行することで何らかの内的霊的区切りと、新たな出発が為されることを人間であれば誰でも知っている。形にこだわり過ぎることも問題だが、形に敬意を表さないのはもっと問題だろう。神も仏もない、死んだら灰となり無になるだけだと言い張っていた父だったが、残された者がその縛りを解いてあげなければ、もはや体を持たない父は霊の自由の光を封印したままで無力だ。70年を超えて連れ添ってきた母の表情は納骨を終えて付き物が取れたように穏やかになって、それを見て私は、ある意味長男としては裏切って出ていったが、父の私への恨を解いて善しとした。父はこれで自由の光を得て前を向ける。
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