2018年4月19日木曜日

今日の想い 967

低く長く雷鳴が響いている。雨が激しくなってきた。明日の朝早く北に向かうことにしているが、雨中での運転は思いやられる。実は中心者が緊急入院した。相当重いらしい。経営に支障が来すとして新たな中心が立てられるとして一体これからどうなるのだろうか。後を引き継いで牽引していく展望も戦略もない。病状ももちろん心配だが正直こちらの方が思いやられる。中心にはある決意を話してアメリカを後にすることにしていた。しかし突然の出来事でこの状態で動くのはやはり負債が残るので延期した。動くにしても何らかの方針、方向性だけでも責任を持つべきだろう。当然の事だ。私の決意と新出発は思いもかけなかった悪天候に見舞われている。どう足掻こうがどうせ落ち着くところに落ち着くのだろうが、だからといって放っておく訳にもいかず、意見交換でもして納得できる妥協案を出さざるを得ない。各店が後継者に苦慮しているように、次なる中心に立てる存在の不在が問題の核にあることは言うに及ばない。食口であれば人格成長という高尚すぎる目標を掲げている。しかしあまりにも漠然としているためにそこに到達するまでの道のりが見えず、地上生でめざすべき社会性を備え生活能力や交渉能力、組織運営に長けるといった人材教育や人材発掘が等閑にされてきた。献身という名の使いまわし体質が根底にあるものだからこの組織に誰も寄り付かない。二世や若い世代が入ってこれるような魅力ある組織へと変えていこうとしていたが、以前としてコアなメンバーの体質やメンタリティーは変わらない。中心者が何とかひとつにしようと頑張っても無理で、一度はスクラップしないとビルドは為せないと私は思っている。魂が立たなければ神殿も立たないし、いつまでも仮のあばら家住まいだ。当の本人にすればあばら家でも守るべき形として頑張っているが、あばら家住まいをひたすら守っていても良き人材は見向きもしない。

2018年4月6日金曜日

今日の想い 966

地上では悩み通しだったとしても霊界に入って悩むことはない。霊人体の成長に関わらず、地上を離れ霊界に行くということは自分という存在の在り様に対する一つの結論を出したということに他ならない。人間は誰もが思い悩む。相反する思いが同居する。前にも述べたように、私という存在は多くの霊によって形作られ、多くの霊によって今の自分という魂が成り立っている。多くの霊によっているためにそれぞれの霊が声を発するのであり、だから地上の魂には悩むという表現として表われる。地上生の大義は愛の成長であり愛の実りだから、一方を生かして一方を抹殺するという二者択一ではなく、いかにアベルとカインを一つにして一体圏を創造するかでありそれが地上生の願いに応える愛の実りだと言える。一つにするためには何らかの犠牲がそれぞれに伴い、それが愛の投入、与える愛という表現になる。相反する思いの同居は一方がアベル的霊であり一方がカイン的霊だが、アベル的霊を遡ってゆけばアベルという存在に辿り着き、カイン的霊であればカインという存在に辿り着く。自分の中にはそのように多くの霊がアベル的立場、カイン的立場を霊の看板として掲げて同居している。食口は原理は永遠の原理だと信じているし、み言葉はいつの時代であっても真理だと認識しているが、それが善悪の秤として扱う限りは、実はどんな時代霊が治めるかによって異なってくる。しかし私達は原理を相続したのではなく心情を相続したのであり、心情の種を受け取る意味で真の父母に繋がったのであればみ言葉の解釈如何は些細な問題でしかない。心情をいかに育てていくかを中心に生きれば原理の目的は既に成就したことになる。原理の善悪秤によるアベルカインではなく、自分の中の異なる思いがアベルでありカインであることがわかれば、その繋がりから自分がどんな霊的存在達によって立たされているかが見えてくる。そして自分の使命も見えてくる。そして自分の内面のアベルカインの一体化、すなわち一体圏の創造が目の前の現実世界に鏡を見るように環境圏として現れてくる。地上で悩むという事は自分は使命を受けた存在であるということだ。悩みがなければ地上に生を受けた意味はほぼない。それは真の御父様であれ御母様であれ私達以上に悩まれたはずだ。もちろんその次元は私達のそれとは遥かに異なるものだろうが、、。霊界では明らかに悩みはなくなる。その意味は相当に平穏であり退屈な世界でもある。しかし悩みやその戦いから逃げず、愛という犠牲の本質を地上で学んだ霊は、その深くも広い心情世界故に行動の次元は爆発的に大きく広がる。

2018年3月18日日曜日

今日の想い 965

自分が責任を避けてきたのは甘い教会体質によるものだったとしても、もはやそれは言い訳以外のなにものでもなく、言い訳の為に思考や感情を使うのではなく責任を取る自分という意志を立て、意志を中心として思考し感情する私になる。そして結果を出さなければ最終的に責任を取ったとはいえないはずだ。甘えの構造は後天時代に入った今も教会に関連する組織内に色濃く残っていて、それは壊さない限り、或いは飛び出さない限り残り続けるだろう。御母様がどうの御子女様がどうのという思いも、我知らず責任を避ける言い訳として使っているのであって、私の良心が判断したみ旨、そのみ旨を為すための戦略である摂理を全うするために邁進すればいいだけのことだ。御父様の言い分と御母様の言い分が食い違おうともそれは地上の言葉であって、霊的見地に立てば一切食い違うことはない。でもはっきりしていることは御父様は地上にはおられない。その意味は語られた言葉に効力があるのではなく、言葉を通して受け取った霊的相続を通して効力を発するということだ。御父様のみ言葉を通して受け取った霊的基台の上で御母様の言葉を理解し受け入れることは、言い分が違うことによる問題は生じない。その意味が分からない者は霊的内容を全く理解していない。地上と異なる地上と同じ在り様の死後の世界を未だに見ようとしている。霊界はまさに地上と共にあって地上の原因を捉えられることが霊界を理解していると言える。現実の裏表が霊界であり地上だということだ。御母様の言い分が問題なのではなく御母様の霊的背後を見通せない私の問題であり、信仰生活が霊的開眼に繋がっていくのではなく、地獄に行きたくない裁かれたくないという逃げの自己中心的信仰によって、霊界という異なる地上世界を幻想しながら信仰生活が教条主義に陥っていることに問題がある。繰り返すと、原理やみ言葉に基づいていると信じていても思考が先行するのではなく、信仰的感情であったとしても感情が先行するのではなく、あくまで自らの使命を認識しその責任を全うする意志を先頭に立ててこそ摂理を担い、私への神の願い、み旨を掲げる私が立つ。

2018年3月4日日曜日

今日の想い 964

感情を抑えきれずに叫ぶのとは異なる、心(魂)の叫びという言い方で表現する内面がある。言葉に表現できない心の叫び、感情で表現したら貶めてしまう心の叫びがある。心の叫びを抱えていない者に神を語る資格はない。心情を語る資格はない。心の叫びこそ神様の叫びの片鱗だ。報われるとも知らない抱えきれない苦労を幾重にも重ねながら、いつ飛んでくるとも知らない理不尽な仕打ちの鞭に怯え続けながら、癒されない悲しみにふさぎ込み消え入りそうになりながら、しかしその中でこそ寄り添い分かち合う霊の存在が訪ねてくる。その御方こそ神様だ。創造主の神でも二性性相の神様でも、ましてや王冠をかぶった神様でもない私の霊の親としての神様だ。現代人は頭が肥大化し、論理で説明できないものは完全否定してかかるものだから、原理は確かに必要だったけれども、霊の親としての神様を認識した者にとって原理に帰る必要はない。心情として掴んだ神様に絶対信仰絶対愛絶対服従だ。白衣民族が恨を抱えているように、私達は心情としての心の叫びを抱えて摂理に向かうべきだ。今の自分に今の環境に満足したままで為さんとすることが為せるはずがなく、ましてや摂理の完遂など笑い話だ。そして羊と山羊の分別は実は心情という核を持っているかどうかで決められる。心情こそが核であり核のない人間は神様に根を持たない種のない人間だ。そして核爆弾ならぬ心情の核の爆発こそ世界の大変革を成し遂げる。放射能の拡散ではなく真の愛の拡散だ。心情の核爆弾の引き金は心の叫びが共鳴し合い地球の魂の器から溢れ出すことで引かれる。合わせて個々の引き金が連鎖的に引かれて、真の愛は瞬時に地球を覆い尽くす。無理矢理に慰安婦問題や徴用工問題に仕立てて騒ぎ立てるのも恨の文化からくるものだが、裕福なカナン七族に取り込まれないよう国家建設にイスラエル民族の目を向けさせることに苦心したように、実体の天一国建設にはそれに向かう動機としての心の叫びを持ちえない限り一歩も前には進めない。

2018年1月28日日曜日

今日の想い 963

父が肺炎で倒れた。急遽チケットをとり田舎に向かった。今は両親と共にいる。両親も随分年取ったが同じように家も年を重ねている。この寒波で2メーターも積もった雪に辛うじて耐えている。父はひと先ず退院はしたが大量の抗生物質に消化器系をやられ、腹の不調を訴え喰うものも喰わない。起き上がって歩ける位にはならないとそのまま置いて帰れないが、果たして90近い父に回復は望めるだろうか。どうしたもんかと思案にくれる。家の雪かきもすべきなのだが既に軒を超えていてショベル一つで遣り終える自信がない。父は機械を使っていたのだが手慣れていない私にはとても使えない。今も雪は私の心配を掻き立てるように降り続く。心配ばかりをこの場にいても膨らませる。妻の心配をし子供の心配をし、店の心配もして、今、両親への心配をどこまでも膨らませる。私はどこにいても心配している。させられていると思っていたけれども心配している。おそらく今の心配事が解決したとしても直ぐに次の心配事を見つけ出す。まるで心配するためにこの世に生まれたかのように、、。そう、おそらくそうなのだろう。私は心配するために生きている。だからわざわざ妻が病気になり、店の様々な問題が次から次へと起こり、今はずっと心配かけた両親を心配している。そしてそのことをしっかりと受け止める使命が私にはある。使命に生きてこそ原理的生活であり、み旨だ何だと言いながらそこから逃げるのは私にとっては堕落的だ。病気で生活もままならない親を無視したままで、どれほど教会活動に奔走したところで所詮堕落的だ。心配は受動的感情だけれども心配事の対象に正面から立ち向かうのは能動的犠牲精神だ。そうして私の霊はそれでこそ成長する。すなわち神様の対象足りうる。

2018年1月4日木曜日

今日の想い 962(性について)

性への欲望を不純なる自己中心的我慾とみるかそれとも霊的高みに上ろうとする純真なる願いとみるかは宗教圏に留まるか宗教圏を超えた本体論的意識に届くかであり、何の動機による性的行動かによって自己中心的なものに留まる肉的満足感を得るだけなのか、それとも愛の儀式として神様に供えることができるのかが決定する。母のいない天の御父様のみであった先天時代を超えて天の父母様としての後天時代が開かれた今、それは堕落のない時代、堕落できない時代であり、先天の性への罪悪感は後天に於いて引きずり抱くものではない。サタンによって悪用されたフリーセックスという肉的言葉が、後天に於いては内的な言葉としての自由な性、解放の性に向かうだろう。日の当たらないサタン的悪の儀式であった性は、善なる性、創造の性に取って代わる。愛が先か性が先かとなると愛が先に決まっていると当然のように言うけれども、実は性を通して愛が育まれ、また愛を通して性が実を為すというどちらが先というものでもない。取って食べてはならないという戒めの言葉は、愛があれば許されるというものではなく、祝福を受けてこそ許されるもの、いや為すべきもので、祝福を受けて初めて性を開き夫婦の愛を植え付け夫婦の愛を育てていく。現実問題として肉体を持っている以上様々な性に対する局面を味わうわけで、見たい触れたい心揺さぶられる肉の想いは押さえつけても押さえつけても噴出するのであり、またそれなりにその欲望に譲歩せざるを得ないのであり、しかしそれが罪だ堕落性だと自分を非難するのではなく良心との対話の内に、より夫婦愛を強くする方向に、より愛の実としての性への感謝に繋げるべきだ。万物への感謝が食欲と密接な関係性があるように、性への感謝も性欲と関係性を持たせる必要がある。万物への感謝によって万物の本質を知る者となり、それによって人は財を為せるように、性という愛の実への感謝によって愛の本質を知る者となり、それによって内的霊的財を為せる者、すなわち愛の人格を備える者となる。善なる性、創造の性は祝福を受けた者の特権であり、その意味は最初に記したように動機を正すことができるからであり、祝福家庭の性は為に生きるという目的性が明確に存在しているしそうあるべきだ。子を産むための性のみならず、あらゆる創造的種が植え付けられる性、真の愛、最高の愛の儀式としての性によって私達の神様は封印されておられた創造性を爆発的に解放される。

2017年12月13日水曜日

今日の想い 961

私達は神様をどのようにイメージしているのだろうか。私自身はどうだろうか。そしてそれは神様御自身のイメージとして正しいものだろうか。しかし本来神様の全体像をイメージで捉えることなどできるものだろうか。もちろん神様のイメージが視覚的であったり感覚的であったりするのは一面的だ、ということは理解できるが、私達が捉えている愛の神様、親なる神様というのも感覚を超えたイメージであって全体像とはいえない。神体験、というけれどもイメージしている愛の神様、親なる神様に触れたときを指しているのだろうし、子を奪われた親としての悲しみや孤独に触れたときもそうかも知れないが、どちらかというと力弱き神様、力弱い者達に寄り添う神様というイメージは私達の神観として付いてまわる。だから御母様が権威を持ち出した時に違和感を覚えるのだろうし、御母様と言いながらも寄り添ってくれる神様を求めている。しかし世界復帰は強力なる神様でこそ為せるだろうし、摂理の一角を担っていると自負するなら子として相続した権威を持ち出さなければ一歩も進まない。御父様が身内の兄弟を殴ってでも祝福を受けさせろと言っておられたのは冗談ではなく権威を本気で持ち出せという事だとも思えるがどうなんだろうか。権威主義をひけらかすのはどうかとは思うが、権威がなければいつも良い話をするオジサンでやり過ごされてしまって摂理は進まない。ジューイッシュにはユダヤの神様がいてクリスチャンにはキリスト教の神様がおられ、イスラム教徒にはアラーの神様がおられる。おられるという意味は信奉しているという意味だが、それぞれのイメージがあり、それぞれの特徴がある。結局は一なる神様であり私達が信じる神様と同じだというのは正しいのかも知れないが、同じならイメージも同じかというと実は大きく異なっている。少なくとも権威ある神様となるとユダヤの神エホバ神を信奉しているジューイッシュは権威、力の神であって、それ故にどこか傲慢な態度であったり物言いがそんな風で周囲からは嫌われがちだ。しかし彼等は事実力を持っている、というより権威の神を見ようとし体現しようとしている。先天時代の総括は御父様が再臨主、キリスト使命の完成を為された上で、新たな後天時代の出発、新しい時代霊の産出が為され、人類目標がその時代霊によって与えられるということだ。大宇宙の視点に立てばアダムとエバは新しい時代霊の出発だった。人類という実体を持つ時代の時代霊の出発だった。そして後天時代の出発は祝福家庭という実体を持つ新たな時代霊の出発だ。私達は真の父母様を新しくも真なるアダムエバとし、究極的存在を天の父母様と呼ぶ新生人類だ。全ての環境はこの新生人類の為に存在し、そして新生人類が主管していく。しかし忘れてはならないのは新生人類は公益人間の集まりであって、為に生きることを主義とし自己中心に走ることはない。私達祝福家庭を通して天の父母様はその権威を現し愛を現していかれる。私達のイメージで雁字搦めになっている神観が御母様を受け入れられないのであり、この世を主管し新たな世を創り出すほどの権威と力を相続できていない。すなわち後天時代の力を母体から得る霊的へその緒が絡まるか詰まっていて霊力を受け取れないでいる。さらに言えば胎児は頭を下にしているのであり、後天時代の出発は論理という頭が先導するのではなく生殖器が思考し生殖器周りの丹田が先導する。偽りの良心の声は頭から発せられたが良心革命されることで真の良心(神)の声は丹田から発せられる。