2007年11月24日土曜日

病気に対する思考

病気になる食口は多い。どうして病気になるのか考えてみる。好きで病気になる人はいない。自分が願わないのに病気になる。しかし本当にそうだろうか。身体に無理を強いて病気になる?しかし身体を酷使するほどでもないだろうしスポーツ選手等にきわめて病気になる人が多いということでもない。病気は気を病むと書く。ストレスから病になるということだ。自分が願わない事、受けたくないものを受け続けると必ず病気になる。もうこれ以上受けられないという自分の許容量の限界を超えると魂は入ってこようとする体験を拒み始める。どこかに逃げ道を模索する。自分の魂が置かれている現状から逃げようともがくのだが、抑えられぬ欲望であったりいろんなシガラミであったり家庭や社会的立場という背負っている責任であったりで逃げるに逃げられない。唯一の逃げ道は病気になること。病気になればそういった事を捨てるかほって置いて身体の痛みに掛かりっきりにならざるを得ない。想い、感情の次元では病気などなりたくないという存在ではあっても、その奥にある深い魂のところで逃げ場として病気になることを望んでいる。それが理解できないというのは自分というひとつの霊的存在に対する無知である。この世に於ける全ての経験が自分という霊的存在を成長もさせ堕落もさせるように病気になることが悪い事とも一概に言えない。私がイメージして理解できることはこの世で病に苦しんだ人は霊界に於いては健康霊体となる、という事実だ。それはこの世で健康であった人と病に苦しんだ人とどちらが健康に対してより意識し、健康の有難さが魂に染み入るほどに理解できるかというと後者である。霊界はある意味この世と逆説的に働く。魂の中に健康に対する意識、感謝の気持ちが大きければ大きいほどそれが自分を健康霊体に創る。自分は愛されているという想いが強ければ強いほど自分の霊体から光(愛)を発し全ての霊界の事物を明るく照らし出す。病気になってもがく状態からその経験故により深い、より高い、より広くより大きい気付きが自分のなかに備わり新しい感覚で世界を見れるようになれば魂の喜びはどれほど大きいだろうか。病と縁遠い人に二通りある。魂の成長の意味を理解し全ての経験を心から感謝している人、今一人は親が死んでも気にもしないほど心情感情に於いて鈍く魂の成長の意味がわからない人。

0 件のコメント: