2007年11月22日木曜日
霊的成長
どんなに優秀な人がデータを分析してそれを基にして頭をひねっても、センスと一瞬の直感に勝ることはできない。どれだけ働いたか動いたかが問題ではなく、一生懸命自己を投入することを通してセンスと直感を磨くことが重要である。それが出来ないなら時間労働の価値は遥かに薄らぐ。どちらかと言うと機械に近いかも知れない。ひとつの動きにしても機械的なものから生命は伝わらない。動きにどういう想いが詰まっているか、すしひとつ握るにしても万感込めて握ったすしは感動的な味わいがあるものだ。その違いを理解しようと努め、行動することがセンスと直感を磨くことに繋がる。自分がどういう意識で行動しているのかの認識がない。それに気付くように言葉を掛けると表情が固まる。何を言っているのか意味不明なのだろう。自分はやることをやっている、それ以上の事など全くイメージできない。イメージできないものに対してベクトルを向けることは出来ない。多くのみ言葉を学んできたにも拘らず、ひとつとして魂に届いたものが本当にあるのだろうかと疑いたくなる。勿論そう言う自分も何もわかっちゃいない。しかし方向は正しいという確信だけはある。霊界があることを否定しないながらも今生きて霊的な関わりが判らないし持てない。死んだ後に行くところだぐらいの認識しかない。どう接することが彼の為になるのか熟考しもっと関わる必要がある。怒鳴ろうが引っ叩こうが何もしないよりは遥かにましだろう。愛するとは関わりを持つことからだと思っている。霊人体がぼやけているなら幽霊とさして変わりない。肉体を纏った幽霊なのだ。自分の配下にありながらその辺のことを無視するのであれば、彼に対しても所属する組織に対しても愛を注ごうとはしていない。。心霊を動員駆使してこの目の前の経験に殉ずることが私の使命だ。それが自分の今生かされている意味だ。
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