まだもやもやしたものが完全に取り払われた訳ではないが、多くの導きと癒しを受けたことに対して感謝の思いで満ちている。導きと癒しは先ず人を介して届く。いろんな人と不器用ながら関わろうとする処に導きが訪れる。小心者で非常に傷つきやすい質の自分にとって、自分から関わろうとすることがどれ程大きな闘いであるかは神様もご存知である。人との係わりが嫌で嫌でどうしようもなく自分の中に閉じこもろうとする自分が嫌いで仕様が無かった。しかしそれこそが自分そのものと言う存在であると認めたのはそう遠い昔ではない。そうであればこそひたすら為すべき事だけを見据えて事にあたる為に、魂の底から祈る想いなくして一歩も進むことはできない。それ故その弱さが自分の強みでもある。その姿勢に神様はついていてくださる。そういう時、故郷に降り積もる雪のようにしんしんと愛が届くのを感じる。困難に出会うときその困難を装いながら、より高次の愛がそこに隠されている。この世に生まれ出でたことに対する感謝の意識が芽生えてきたのはごく最近になってからだ。それまで生まれてきたことに対しての責めをどれ程天にぶちまけたろう。私に対する非難のひとつも口にすることなしに、もくもくと働き続けてきた両親の姿が神様の背中に重なる。私の親なる天の父さまは一言も口にだすことはない。ただただその背中で私を見つめ続ける。あまりにも小さい背中で見つめ続ける。
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