2008年2月27日水曜日

夫婦病臥

忘れた頃、思い出したように縛りがかかる。右下半身に痛みが走った。最初はちょっとした筋肉痛ぐらいの痛みだったが時間を追うごとに痛みは深部に届き激しさを増していった。その日妻の貧血治療のアポが入っていたので激痛に耐えながら、往復二時間の運転をこなした。妻も数日前に手術したばかりだから彼女もまともな動きは取れない。その妻を支えながらの行程だったので身体への無理は極みに達した。その夜ついに身動きが取れない状態になる。身体を起こしているのも痛いし横になっても痛い。動作のひとつひとつに激痛を覚悟しなければならない。今回は腹を割いたばかりの妻に頼む事も出来ず、どれだけ激痛を伴い時間を要そうとも最低の事はしなければならない。幸い娘が学校が終われば身の回りの事はやってくれるので、それまでの辛抱ではあるが寝返りを打つのでさえ相当量のエネルギーを使う。そのうち下半身を支えようとして無理を強いてついに背中にもきた。今までに何度も味わった背中の苦痛が更に加えられた。背中にくると完全にお手上げ状態だ。味わった者でしか分からないが、息をするのでさえ響いて痛い。呼吸も最低限に留める様強いられる。神経線維を無理に引きちぎられるような拷問がここ数日続いた。昨日あたりから少しは治まり店にも顔を出せるくらいにはなったが往生させられた。妻の緊急手術から端を発した一連の責め苦もやっと峠を越した。二人して精神的にも肉体的にものた打ち回ったが、敢えてうれしく思った。初めて彼女の中に甘受する魂を見ることが出来た。今まで押し込まれるものを拒み続けていたが、ささくれ立った内面を慰労し運命を包み込む姿勢が見て取れた。手術後二日ほど僅かの水分補給も止められた。それが許されて口に含んだ真水のなんと甘いことか。水を頂ける有難さをよほど感じたようだ。退院してそのことを私に報告してくれた。強張った顔で口を閉ざして退院していた今までとは違った。うれしかった。彼女にいい経験をしてくれたことを告げた。

2008年2月22日金曜日

表現の自由

人間が表現してきたものの中にも感動に値するものは山ほどある。絵画にしろ楽曲にしろ書物にしろ多彩な閃きと創造に溢れている。表現できる自由を最大限に謳歌している。自分でも見ることが出来ない内面の深いところを形にしたい欲望が創作活動に向けさせる。しかし内面を掘下げれば掘り下げるほど自由になれない自分を認めざるを得ない。魂の自由をどこまで得ているかが表現の深さに比例する。本人が理解するしないに関わらず自分を問い根源的なものに対峙することでしか紡ぎ出せない。根源的なものを見失った人類は形からそれを求めていく以外ない。様々に創造された芸術を通して人間とは何か自分とは何かを問うてきた。人間を含む被造物を通して究極の存在とは何かを問うてきたように。形からしか本質に近づくことが許されなかった長い歴史を経て、本質を先ず知らされ本質から形を現す時代圏を今迎えている。無限大の魂の自由を得て無限大の表現の可能性を手にする。自由に生きることの本当の意味は根源的な存在に繋がって生きることを意味する。それを捉えることが出来ず自由はない。自由と思っていたものは囚われた想いでしかない。勝利された真の父母こそ根源的な存在に直結された目に見ることの出来る存在だ。真の父母の血の在り様、細胞ひとつひとつの形成に自分のそれを合わせること、こう説明すると理解を超えるかもしれないが心情、神霊を働かすことが鍵となる。完全に合わせること、型にはめて完全なる支配と締め付けが完全なる自由に繋がる。極と極は通じる。真の父母に全てを委ね侍ることで完全なる自由を得る。

2008年2月18日月曜日

企画

どんな立派な企画もアイデアもそれを形にする全工程に自分が責任を持つことで生きる。アイデアは出すが後は人にまかせっきりというのでは所詮ひとごとでしかない。ひとつのこれならいけるというアイデアが出されたなら、それを形にする為のプロセスに自分が入り込んでやりたいと思うか、やれる覚悟があるかないか、これが机上の輪郭の無い空想から現場に足をつけ具体的に形にしていく現実化に繋がる。責任者にそれがなくて手足になるべき配下に現実化の流れが伝わるはずは無い。最初からないものを下に丸投げすれば形になってくるだろうと思えるところが不思議でしょうがない。責任という意味がわかっていない。責任観念が我々の体制には抜け落ちている。悪い意味で神様だより人だより、摂理は時々刻々変わっていくからその時任せという体質が染み付いている。責任の重みなどはなから無い。私は考える人あなたは動く人というすみ分けはおかしいと気付かないのだろうか。今の体質で上の企画が形になることはありえない。今までのあらゆる企画がものにならないのはそこに原因があるにも拘らず気付かない振りをして今まで来た。多かれ少なかれ誰もが甘えの体質に染められている。命を懸けてやっているような気でいるのかもしれないがその本当の意味が解っている者は周りにはいない。しかし唯一現場に携わる立場からの企画が出され自分の責任に於いてなされていくのであれば形になる可能性はまだ十分にある。

2008年2月17日日曜日

四度目の開腹

腹を何度も割かれながら、その悲しい運命に苛まされ続ける日々にあっても、私は更に追い討ちをかける様に鋭い言葉を投げかける。それほどに身体を痛めつけてでも悟って欲しい内容が彼女にあるはずだと自分は見る。彼女の存在の価値はそれを本人が悟ることで認められる。その確信が彼女を追い詰める。小康状態にある時は自分の安らかな時を持ちたいという気持ちで他の思いを寄せ付けない。歩んで来たみ旨は苦労ではあっても自分の魂の肥やしとはなかなか受け止められないらしい。それほどまでに身体に苦痛を押し込まれながらその意味を問おうとする姿勢から逃げている。今は彼女に取って外的健康を取り戻すことだけが願いであると信じている。しかしその奥の魂の願いをなかなか見ようとしない。彼女の魂に対する責任が自分にある、というより彼女の魂は自分の魂でもある。そういう夫としての立場から彼女の姿勢は歯がゆい思いがする。魂の願いを悟り本質の歓びを知る時、肉体の苦痛を超え生死を超える世界が開ける。その次元に二人一体となって生まれ出でたい。自分のその願望が彼女を追い詰めてしまう。投げかける言葉の本当の意味を理解してほしい。しかし更に傷つける鋭い言葉としてしか受け取ろうとせず顔を背ける。数十年連れ添って、私は彼女の流す涙を見たことがない。どれほど傷つけたとしても頑なに偲び続ける。閉ざされた心を全開し、恨みが渦を巻いているなら罵るだけ罵り、血が滴る程に辛いなら声を張り上げ泣き叫んだらいい。更に、憎いなら拳を振り上げて掛かってくればいい。自分はそれを涙を流して受け止めたい。その責めがどれだけ心地いいだろうと思う。しとしと降る雨がその土地を潤すように、さめざめと涙を流すことで魂は潤う。潤うことで今まで気付かなかった溢れんばかりの宇宙の愛を受け入れる。自分が歩んで来た苦労の路程が神様の心情の路程にリンクする。初めて本当の意味で感謝の想いが魂を満たす。たとえ明日には朽ち果てる肉体であっても、この世への執着を超え新しい出発への歓びと期待に向き合う。

2008年2月14日木曜日

今日の気付き

地上で生を送る為に肉体を持って生まれることを選んだ、魂からするとこの表現は正しい。願って地上界に生まれ出でたにも関わらず、肉体を自分が持っていることの意味も忘れ、五感を通してこの世に溢れる様々な愛の要素を自分の中に取り込むことが出来ることの期待感も感動も忘れているのが今の人間だ。堕落した人間と人間の間には邪悪なもののやり取りが多く行われている。しかし自然万物には人間のように貶められた要素はない。直接的に神の霊を素直に受け取り素直に現している。その辺の雑草であろうが転がる石ころであろうが様々な神霊要素の現れとして物質界に存在している。万物に五感を通して触れながらそこを見ようとする目が人間から奪われて幾久しい。キラキラと輝く幼子の目はかつての人間の在り様としての名残だ。燦然と輝く日の光を受ける為に生まれてきた。見て触れることの出来る全ての事物に神様はその姿を現している。日毎あたかも当然のように受け取る全てに感動的な驚きが含まれている。やがて現れる我が子の為に全てを投げ打って創造された神様の血と汗と涙の念が自然万物細胞一つ一つを存在させる。明日食べるものも事欠く状況でありながら父は学生服とカバンの新品を買ってくれた。母はどこから調達したのか精一杯の馳走を並べた。それがどれ程大きな出費であるか、穴の開いた靴下とくたびれた服しか身に付けたことが無かった自分は痛いほど分かる。決まって飯と漬物だけしか食卓に載らなかった自分には痛いほど分かる。試着した姿を仰ぎ見る親の眼差しが心に痛かった。子が喜ぶ姿を見て親は喜ぶ。親は子供がどれほど愛情を注がれているかを理解した時報われる。この自然万物に身を置いた自分は、親なる神様の親心を理解せず、心苦しくも申し訳ない思いが心を満たす時、石ころのかけらにも子を喜ばせたい痛いほどの思いを見るとき、万物はやっと本来の創造理想として活き、数万年を経て神様は報われる。復帰の道とは親を捜し求める道、親の心情をさがし、神様あなたこそ捜し求めていた私の親でしたと言える道。降り注ぐ光の中に、漂う風の中に、愛でる万物の中に、今日受け取る全ての事物の中に子としての自分への親なる神様の溢れんばかりの想いが込められている。

冷たい雨が降る中を車を走らせた。強度の貧血で身体が上手くないらしい。昨日は夕方頃から氷雨が降り続き並木も電線も氷に覆われていたが今朝には雨に変わっていた。月に一度くらいの通院を続けていたが、また週に一度のペースでボルチモアのメディカルセンターに通うことになる。今まで何度も翻弄され続けて、さすがに妻の身体の変調に対してそう驚くことも無くなった。起こり得ることをそのまま受け止める。悟っているのか諦めているのか良く分からないが、前ほど心に波風は立たない。本人もそのような感じだ。さして不安げな様子もなく、買い物にでも行く感覚だ。雨は止む様子も無く、ワイパーのせわしい単純な動きがむなしい。この冷たい雨の中に身を置くことで何を学ぶのだろう。車に乗っている間、妻は前方を身動きせずに眺めている。眠っているのかと思ったが目だけは開いている。その表情に何の心の変化も表れない。心配でどうでもいい質問を二三して見る。それに応えてくれることでいくらか安堵する。昔は食欲旺盛だったのが今は鳥が突付くぐらいしか口にしない。水ばかりやたら飲むのを見ればなるほど鳥に近いのかもしれない。腕は枯れ枝のように細く殆どの肉は削げ落ちてしまった。妻の身体の軽くなった分、私の心は重くなった。、、、、しかしこの雨に身を置くことで自分が学ぶことは何だろう。誰もが忌み嫌うその中にこそ学ぶものがある。そういえばドナーが見つかり手術に行く当日も雨が降り始めた。妻は恵みのにわか雨と口にした。やっとのことで移植が受けられるという想いがあったのだろう。身体を悪くしてからのいろんな経験を反復していたのだろう。冷たい雨は誰をも無口にさせる。口を閉じることで内省を始める。いろんな昔のことが思い出される。皆の心が過去を向く。魂が清算すべきことを確認させるのかもしれない。雨に洗われた万物がその光を取り戻すように、魂を冷たい雨に晒して気付いていない大切な何かが洗い出される。悲しさも侘しさも自分の存在を知る尊い経験に違いない。しっかりとその感情に浸ることも大切だ。長い雨は魂の奥深くまで浸透し日頃見えない傷を確認させる。

2008年2月13日水曜日

灯火

何とも言えない重い空気を感じながら新年を迎えた。一月が過ぎ二月に入ってもその感覚は変わらない。冬は冷たい雨や吹きすさぶ寒風から全ての生命が閉じられ身を護っているが、今年の冬は明らかに今までとは違う。厳しさを覚悟しろと言わんばかりの空気感が天候の様子にも人々の表情態度にも、そして営業の流れや従業員の内的様相にも感じられる。それはここだけではないらしい。兄弟店のあちこちでも様々な問題が噴出し始めている。経済が良くないから全てに下降意識が働く、おそらくそれも言えるだろう。卸している業者の営業に話を聞いても、どこの店も頭を振っているらしい。今年から本格的に経済が下降するのは前にも記したように解り切った事である。しかしそれだけではない。何かが漂っている。9.11、世界はどうなるんだろうという誰もがその時持った感覚、街は不気味にひっそりとし誰からも笑顔が消えたあの感覚、なんとなく似ている。誰もが暗い様相に染められつつある。明らかに神霊に反する暗い霊的要素に犯されつつある。昼最中でも暗い。しかしその空気感に身を委ねるようでは本質に生きようとする自分の存在意味はない。しかしだからと言ってカラ元気に過ごす事が問題解決にはならない。光り輝く太陽のもとではロウソクの光など存在感はないが、漆黒の闇が天を覆うその下では小さい一灯の存在感が際立つ。暗い様相に個人も家庭も国も世界も覆われる。誰もが光を見失いさ迷い始める。今まさしくその時が始まろうとしている。どれだけの期間を要して、人は光の価値、真の愛の価値に目覚めるのだろう。人類の目覚めが興るまで神はこの暗黒の期間を悪魔に許された。人類が悟ることを通して悪魔も救われる。よって全ての地獄の底がひっくり返され地上に悪霊と暗黒が溢れる。どんなに小さな灯であったとしても、それが真の父母から流れてくる愛であれば暗黒にさ迷う人々の心の目に留まる。初めて我々が真の父母の代身であることを実感するだろう。真の愛の尊さを身を持って実感するだろう。疲れ果てた心情を携えながらも真の愛の灯を灯し続けること、これから始まろうとするこの期間にこそ我々の本領は発揮される。誰もが認めざるを得ない真の父母の代身、再臨のメシアの代身、弥勒の代身となる。

2008年2月11日月曜日

コンサルタント

コンサルタントにコンセプトを考えてもらう時点で既におかしいと思うべきだ。コンセプトは理念であり想いであり理想であり夢である。要するにどうしてその店をやりたいのかという事業の根源の部分だ。そこをどうして他人に任せることが出来るのか。はなから我々に何の理念も理想も夢もないと言う所から出発している。そこにはただただ儲けたいという願いしか存在しない。コンサルタントもコンサルタントで、儲かるコンセプトは何と問われて彼らとしての夢が形になりそうなものを提案する。しかしそれは彼らの夢であって我々の夢ではない。まともな、良心のあるコンサルタントなら、あなたはどうしたいのかを問いかけるだろうしそれを形にする為に培った知恵なりリソースなりを提供しますと言うことになる。万が一丸投げしてコンサルタントから提示されたものを形に出来たとしても、訳も解からずそれを任され毎日営業し利益を出すことを強いられることがどれ程苦しいか。我々既存の店に於いて、何も解からずあなたはここの店長と言われ、誰かが作ったものの一つ一つを受け入れ消化し自分色に変えていく過程がどれ程犠牲が伴い投入して投入してここまできたかということの内容も意味も全く理解していない。本部と現場とが完全に乖離している。現場に於いて長年汗し涙して培ってきた内外の内容が明らかに在るにも拘らず本部はそこに目が届かない。現場からの説明の仕方にも問題があるが、現場に立たなければ理解できない、説明が困難なことのほうが多い。理詰めでこれがいいからやれと言われてもそれはあくまで机の上で考えた内容で、現場に立たされたものはそのアイデアがうまくいくものかどうなのか培ったセンスや勘で判断する。現場で培ってきたその感性が財産であり、それを使って次の展開なりステージに上がるなりをすべきである。しかしそこを認めず訳の分からない他人の頭の中を信用するなぞ私には理解できない。

2008年2月7日木曜日

終末そして新時代

自分がどういう存在であるかを知っている人間は殆どいない。自分の性格はそれなりに把握していても、それは表面的なもので移り行く自分の置かれた環境に対処する為の表現の仕方でしかない。それは自分としての本質とは違う。自分の性格のここが嫌だと言うように嫌だと判断する存在が性格の奥にあり、それを変えたいと願う存在が更に奥にあり、それを変えようとする意志の存在がまたその奥にある。そしてその意志がどこから来ているかを突き詰めていけばそこに自我の根を見ることが出来る。しかしそう簡単に自分というものを把握することはできない。瞑想すれば数分の間に何百何千という様々な取りとめの無い思いが湧いては消え消えては湧くように、荒れ狂う馬のような自分の内面を主管して本質を見つめようとすることは至難の業だ。自分の行動すら主管できないのに見渡す限りの荒海である内面は取り付く島などない。神の存在を否定して生きるということはその荒海のなかに揉まれながら一生をさ迷い続けることを意味する。人生を旅としてよく表現するが旅とさ迷う事とは違う。さ迷う事に、辿り着く目標も無ければ羅針盤もない。糸の切れた凧が持ち主の所に帰ってくる偶然は万に一つも無い。人間本来生まれながらにしてその出処を知る立場にあった。敢えて宗教に頼り信仰を持つまでも無く自我の故郷を知っていた。しかし強烈なある事件によりその故郷を見失うことになる。数万年の時を経ながら数十億の魂はさ迷い続ける。肉体を持ってさ迷い、死んで尚さ迷う。さ迷い続け悪を善だと悪魔に耳打ちされながら魂を奪われた者達はもはや聞く耳を持たない。蜃気楼を我が故郷だと言い張りいつ消えるとも知れない泡にしがみつく。親なる姿を現しても悪魔だと罵り、共に故郷に帰ろうと声をかけても無視し陰で嘲笑う。自分の子達だと騙し多くの魂を蝕み続け、この世の王として君臨し続けた悪魔も最後の時を目の前にする。光り輝く煌びやかな神霊が湧く泉の如くことごとく地上に満たされ始めると悪魔の正体は白日の下に晒され、その眩しさに身を焼かれる。一人のお方の犠牲と勝利が新生を宇宙の隅々まで行き渡らせる。自分の漆黒の内面が光に満ち、求めていたものが陰に過ぎないことを知る。光の出処に向けて万人が歩み始める。還故郷の時を人類は迎えている。魂から溢れ出した光が宇宙に溢れる。全ての万物が光り輝く神霊に満たされ万物達の新しい次元進化をこの目に確認する。

2008年2月6日水曜日

本質的変化

自分に巣食う無数の観念、それが偽りであるとも何とも判断できずに、それに頼るしかなく自分自身をかんじがらめにしてきた。そこから組み立てられる思考は掘り下げれば掘り下げるほど不気味な得体の知れない物をつつきまわすように、気持ちを鬱の極限まで引きずり込み吐き気をもよおす。内から込み上げるものに怯え、外から覆いかぶさるものにも怯える。そんな自分の置かれた状態から開放されるなど思っても見なかった。祖父は念仏を唱え続けていた。しかし唱えれば唱えるほどに落ち込む風にしか見えなかった。唱えている間だけは全ての不安が忘れられるらしい。しかし念仏を唱えた後、祖父の清清しい顔はそこには無い。お釈迦様も親鸞聖人も揺れ惑うロウソクの火に薄暗く浮き出る、自分に重く被さるものの一つでしかなかった。仏壇の中に恐怖はあっても救いのかけらも見出せないと思った。生まれ出でたことが恨めしかった。この土地を離れれば不安の化け物から逃れられるような気がしてひたすら都会を目指した。都会の高校に行きたいがためひたすら勉強した。勉強している間は思考の底なし沼から逃れることがある程度出来る。しかし気を許せば答えの出せない思考がまた始まった。思考の化け物に取り付かれる日々、この土地を逃れることに唯一の希望を託した。救いがあるなど思っても見なかった。自分は特殊な存在で誰一人同じ境遇にあるものなどいないと信じきっていた。誰かに救いを求めようとも自分が落ち込んだ底なし沼の説明ができない。足りぬ言葉で明かせば気が触れたとしか見られない。その当時、救いを求めるのではなく、どうやって不安思考に蓋をするか遠ざけるかをしきりに考えていた。教会に導かれたことで自分の中に一つの理念が芽生える。当初、その理念が成長しそれまでの訳のわからぬ観念が根こそぎ絶やされる等想像つかなかった。しかしその新しい理念で思考を組み立てることを少しずつ覚えると、その思考が光を目指していくのを実感していった。底なし沼で喘いでいた自分が光を目指しているのだ。それは本質的救いであった。しかしある程度の期間をおいて振り返れば確かにと思うが、あの日あの時と言って線を引けるほど極端な変化ではない。本質的変化は急激に訪れるものではない。よくよく注意しておかないと気づかないほどの時間間隔で、しかし確実にそして重々しく、「いつの間に、、、」と皆が口をそろえるように訪れる。謙虚なる畏敬の念と感謝の念がその変化を気付かせてくれる。

2008年2月2日土曜日

今日一日を生きること

生活に対する問題があり、家庭に対する問題があり、職場に於ける様々な問題もある。その中に埋もれて生きることに人生の意味はない。起こり得る問題を嫌なこととして認識するのはそれぞれの主観による。明日にも刑の執行を余儀なくされた死刑囚が悪夢から醒めるように、突如死刑囚の立場から今自分が今置かれている同じ立場に立ったなら、問題は全く問題とは言うに及ばない。ようするに困ったことと認識するか喜ばしい経験とするかは明らかにその人の主観による。こう在るべきだという取り決めが自分の中で形としてあり、それと相反するそぐわない事柄がネガティブ認識となってしまう。人それぞれに内なる中に形作る建物、景色、世界は様々である。それらの要素は人生観であり価値観でありあらゆる信じるところの理念がそれを形作る。しかしながら多くの人間は感情的側面で好きだ嫌いだと反応するが自分の内なる世界がどういう理念の要素で構成されているか無知である。それは動かしがたいものであるとし、だから自分は自分だと頑なにしがみつく。好きなものは好きだし嫌なものは嫌だと決め付けそこに新たな光が入り込む余地はない。新たな世界が展開されることはない。賢い者は表面的感情に左右されない、自分と言う存在を外から観察し軌道修正できる本質の自分を明確に把握している。自分の内なる世界を把握し、更に奥深く入っていってその基となる基礎や土台が何から構成されているかをも把握しようとする。その究極に辿り着けば自分の存在が神から来たものであるか悪魔から来たものであるかを見る。自分の魂の出処が何処であるかを把握することなしに生きることの意味を問うことは出来ない。創造主でありすべての根源であり絶対膳の神を認めているか否かは、その生きることの意味が全く違ってくる。神という言葉に拒否反応を示すのであれば呼び名は何だっていい。とにかくそういう存在を認めない限り全ては空しい。全ては空しいと自分に納得させて生き続けることは出来ない。今日一日を生き抜いて経験した内容の一つ一つを、忘却の海の底に沈めぬうちに掬い出しそれを味わい吟味する。悲しいこと苦しいこと、それはそれで受け入れる。肉体を頂いてその五感で経験する全て、感情の波の全てが自分の魂の食物となる。魂の血となり肉となる為にわざわざ天が与えてくださった経験の一つ一つである。その栄養素を流し去るのではなく、その霊的栄養素としての意味を味わうことが出来れば霊性はその分高まることになる。その量に応じてより広く、より大きく、より深く宇宙を得る。

信仰的

信仰的という言葉は使い古されている。信仰的という意味合いの中に、信仰の本質とは程遠い勝手な観念の衣で覆われ、本来の姿を全く変えてしまっている。信じて義とされる時代から侍って義とされる時代になった。侍ることを通して、信仰だと思い込んで歩んでいたかつての自分の間違いに気付く。兄弟間の間で信仰的と言う言葉は最もよく使う。そして何の疑問も無くその言葉を受け止める。しかし本当の意味で信仰を理解して歩んでいるものは少ない。殆どが信仰モドキで父母様に繋がっている。会議や集会が持たれる場で、日本に於いては、あるいは日本人どうしの間では異を唱えることは滅多に起こらない。異を唱えることが良しとされない、場の雰囲気に自分を合わせようとする、こういった日本人特有の道徳観、善悪基準をもってして信仰的と捉える向きが甚だ多い。信仰はないが信仰的ではある、とする日本食口が大半を占める。礼拝を受けるようにという指示がある。その指示を鵜呑みにして足を運ぶことだけで満足している。あるいは他の兄弟が行っているから自分も、というように周りに合わせることで満足している。訓読するようにという指示がある。ただ表面的な文字を追うことで満足している。言われたことはやっているしそれが信仰だ、と勘違いしている。身体はそれでいいのかもしれない。しかし魂は別のところで働いている。心そこに在らずという状況だ。礼拝に参加してもそこでは神霊が宿る様子に最近触れることは無い。兄弟達、からだを寄せ合ってはいるが魂の輝きを失っているか魂がそこには不在だ。かつてのように礼拝には涙が付き物ではなかったか。その場を共にする皆が神霊に引き上げられ何かお役に立ちたい、与えたい、捧げたいという想いがその場に溢れてはいなかったか。既成教会のほうが遥かに神霊に満たされていたりする。慈愛に満ちている。自分をよく見つめ自分は信仰的だと思うなら先ず、信仰がないと断定した方がいい。そして周りから信仰的だと見られていれば信仰者モドキだと断言すべきだ。自分の中に一本筋が入っているかが先ず問われるべきだ。その筋は少々傾いていたりするが無いと在るではまるっきり違う。在れば修正しながら天に向けて90度の角度にすることは可能であるが、無いものはどうしようもない。無いと一人になった時ふらふらと何処行く当ても無く彷徨うことになってしまう。がんじがらめの日本から身体的には自由なアメリカに来ると、このふらふら病で消えてしまった兄弟が結構いる。