2008年2月2日土曜日

信仰的

信仰的という言葉は使い古されている。信仰的という意味合いの中に、信仰の本質とは程遠い勝手な観念の衣で覆われ、本来の姿を全く変えてしまっている。信じて義とされる時代から侍って義とされる時代になった。侍ることを通して、信仰だと思い込んで歩んでいたかつての自分の間違いに気付く。兄弟間の間で信仰的と言う言葉は最もよく使う。そして何の疑問も無くその言葉を受け止める。しかし本当の意味で信仰を理解して歩んでいるものは少ない。殆どが信仰モドキで父母様に繋がっている。会議や集会が持たれる場で、日本に於いては、あるいは日本人どうしの間では異を唱えることは滅多に起こらない。異を唱えることが良しとされない、場の雰囲気に自分を合わせようとする、こういった日本人特有の道徳観、善悪基準をもってして信仰的と捉える向きが甚だ多い。信仰はないが信仰的ではある、とする日本食口が大半を占める。礼拝を受けるようにという指示がある。その指示を鵜呑みにして足を運ぶことだけで満足している。あるいは他の兄弟が行っているから自分も、というように周りに合わせることで満足している。訓読するようにという指示がある。ただ表面的な文字を追うことで満足している。言われたことはやっているしそれが信仰だ、と勘違いしている。身体はそれでいいのかもしれない。しかし魂は別のところで働いている。心そこに在らずという状況だ。礼拝に参加してもそこでは神霊が宿る様子に最近触れることは無い。兄弟達、からだを寄せ合ってはいるが魂の輝きを失っているか魂がそこには不在だ。かつてのように礼拝には涙が付き物ではなかったか。その場を共にする皆が神霊に引き上げられ何かお役に立ちたい、与えたい、捧げたいという想いがその場に溢れてはいなかったか。既成教会のほうが遥かに神霊に満たされていたりする。慈愛に満ちている。自分をよく見つめ自分は信仰的だと思うなら先ず、信仰がないと断定した方がいい。そして周りから信仰的だと見られていれば信仰者モドキだと断言すべきだ。自分の中に一本筋が入っているかが先ず問われるべきだ。その筋は少々傾いていたりするが無いと在るではまるっきり違う。在れば修正しながら天に向けて90度の角度にすることは可能であるが、無いものはどうしようもない。無いと一人になった時ふらふらと何処行く当ても無く彷徨うことになってしまう。がんじがらめの日本から身体的には自由なアメリカに来ると、このふらふら病で消えてしまった兄弟が結構いる。

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