2008年2月2日土曜日

今日一日を生きること

生活に対する問題があり、家庭に対する問題があり、職場に於ける様々な問題もある。その中に埋もれて生きることに人生の意味はない。起こり得る問題を嫌なこととして認識するのはそれぞれの主観による。明日にも刑の執行を余儀なくされた死刑囚が悪夢から醒めるように、突如死刑囚の立場から今自分が今置かれている同じ立場に立ったなら、問題は全く問題とは言うに及ばない。ようするに困ったことと認識するか喜ばしい経験とするかは明らかにその人の主観による。こう在るべきだという取り決めが自分の中で形としてあり、それと相反するそぐわない事柄がネガティブ認識となってしまう。人それぞれに内なる中に形作る建物、景色、世界は様々である。それらの要素は人生観であり価値観でありあらゆる信じるところの理念がそれを形作る。しかしながら多くの人間は感情的側面で好きだ嫌いだと反応するが自分の内なる世界がどういう理念の要素で構成されているか無知である。それは動かしがたいものであるとし、だから自分は自分だと頑なにしがみつく。好きなものは好きだし嫌なものは嫌だと決め付けそこに新たな光が入り込む余地はない。新たな世界が展開されることはない。賢い者は表面的感情に左右されない、自分と言う存在を外から観察し軌道修正できる本質の自分を明確に把握している。自分の内なる世界を把握し、更に奥深く入っていってその基となる基礎や土台が何から構成されているかをも把握しようとする。その究極に辿り着けば自分の存在が神から来たものであるか悪魔から来たものであるかを見る。自分の魂の出処が何処であるかを把握することなしに生きることの意味を問うことは出来ない。創造主でありすべての根源であり絶対膳の神を認めているか否かは、その生きることの意味が全く違ってくる。神という言葉に拒否反応を示すのであれば呼び名は何だっていい。とにかくそういう存在を認めない限り全ては空しい。全ては空しいと自分に納得させて生き続けることは出来ない。今日一日を生き抜いて経験した内容の一つ一つを、忘却の海の底に沈めぬうちに掬い出しそれを味わい吟味する。悲しいこと苦しいこと、それはそれで受け入れる。肉体を頂いてその五感で経験する全て、感情の波の全てが自分の魂の食物となる。魂の血となり肉となる為にわざわざ天が与えてくださった経験の一つ一つである。その栄養素を流し去るのではなく、その霊的栄養素としての意味を味わうことが出来れば霊性はその分高まることになる。その量に応じてより広く、より大きく、より深く宇宙を得る。

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