2008年2月14日木曜日

今日の気付き

地上で生を送る為に肉体を持って生まれることを選んだ、魂からするとこの表現は正しい。願って地上界に生まれ出でたにも関わらず、肉体を自分が持っていることの意味も忘れ、五感を通してこの世に溢れる様々な愛の要素を自分の中に取り込むことが出来ることの期待感も感動も忘れているのが今の人間だ。堕落した人間と人間の間には邪悪なもののやり取りが多く行われている。しかし自然万物には人間のように貶められた要素はない。直接的に神の霊を素直に受け取り素直に現している。その辺の雑草であろうが転がる石ころであろうが様々な神霊要素の現れとして物質界に存在している。万物に五感を通して触れながらそこを見ようとする目が人間から奪われて幾久しい。キラキラと輝く幼子の目はかつての人間の在り様としての名残だ。燦然と輝く日の光を受ける為に生まれてきた。見て触れることの出来る全ての事物に神様はその姿を現している。日毎あたかも当然のように受け取る全てに感動的な驚きが含まれている。やがて現れる我が子の為に全てを投げ打って創造された神様の血と汗と涙の念が自然万物細胞一つ一つを存在させる。明日食べるものも事欠く状況でありながら父は学生服とカバンの新品を買ってくれた。母はどこから調達したのか精一杯の馳走を並べた。それがどれ程大きな出費であるか、穴の開いた靴下とくたびれた服しか身に付けたことが無かった自分は痛いほど分かる。決まって飯と漬物だけしか食卓に載らなかった自分には痛いほど分かる。試着した姿を仰ぎ見る親の眼差しが心に痛かった。子が喜ぶ姿を見て親は喜ぶ。親は子供がどれほど愛情を注がれているかを理解した時報われる。この自然万物に身を置いた自分は、親なる神様の親心を理解せず、心苦しくも申し訳ない思いが心を満たす時、石ころのかけらにも子を喜ばせたい痛いほどの思いを見るとき、万物はやっと本来の創造理想として活き、数万年を経て神様は報われる。復帰の道とは親を捜し求める道、親の心情をさがし、神様あなたこそ捜し求めていた私の親でしたと言える道。降り注ぐ光の中に、漂う風の中に、愛でる万物の中に、今日受け取る全ての事物の中に子としての自分への親なる神様の溢れんばかりの想いが込められている。

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