2008年4月23日水曜日

アダムエバ問題

むかしから自分にとって関心のある本は片っ端から手に取った。最近になって愛の行為に対する真面目な書物がポツポツと出版されるようになったが少し前まではいかがわしさプンプンの物ばかりだった。向学のためと言い訳しつつそういった類のものを手にとって見るのだが結局は動物的本能を刺激する以外の何物でもなく必ず後になって悔いることになる。五十も過ぎれば落ち着いてくるが復帰された時は青年期のど真ん中で、どんなに自分を繕っても関心はそこに行く。信仰路程の大半は異性に向かう想いや衝動をどう主管していくかという課題に翻弄させられる。朝から夜遅くまで走り回りノルマに追われることで、そういう意識に囚われないよう、謂わば触れない見ないという環境を強いることで性意識に対する蓋をするのだが、うまくいくはずがない。避ければ避けるほど意識は大きくなり爆発する。一線を越えるとなると相手が必要になるためそこまでの冒険をする度胸もないし捨て身にもなれないが、そういう落とし穴にはまる兄弟を見ながら環境さえ整えば明日は我が身だといつも思っていた。妻には話していないがまだ若い頃、どうにも衝動を抑えるのが難しい、想いが行って行ってどうしようもなく、悪魔の罠に嵌るのも時間の問題ではないかと窮したことがあった。気付いた時は感情それ自体が生き物のように自分をがんじがらめにしていた。こうなると原理も何もない。理屈で抑えられる代物ではない。理屈では分かっているが感情は理屈を超えたところで噴出す。感覚魂意思魂のベクトルが総力を挙げて相手に向かう。どのような種類の愛であれメガトン級のパワーが自分の全てを凌駕する、その愛の力というものをへとへとになりながら思い知らされた。理屈も時間も、そして或る意味み言葉も無力だった。我が信仰生活の中でこれが最も大きな峠だという自覚があった。愛にはそれ以上の愛をもってしか超えることはできない。必ずそれを超える愛が届くことをひたすら信じひたすら待つ。愛の火の海に溺れ、身を焦がし、息絶え絶えになりながらの日々を重ね、とにかく待つ。自分の中で偽りに違いないしかし愛という姿の悪神と、真の愛に根ざしたはずのしかし愛の雰囲気とは程遠い善神とが一進一退の熾烈な戦いを繰り広げる。相手の姿で占められた魂の中に父母様の顔が少しずつ少しずつ見えてくる。相手に向いている想いが少しずつ少しずつ相対者に向いていく。微妙な変化を認識しながら癒える見通しがつくまで一年以上を要したと思う。抑えられない感情を持て余しながらも、その感情の背後に見え隠れする堕落天使たちの犯した愛の罪に対する戸惑いと神に背かざるを得なかった遣り切れなさを見た思いがした。相手に取って自分は天使長の位置にあることは明瞭だった。その間、自分の不甲斐なさだけでなく天使長の立場で涙を流し相手の立場で涙を流し相対者の立場で涙を流し、愛の問題で苦しみ続けた多くの霊に対して涙を流しそして神様の立場で涙を流した。いろんな涙が時間をかけて魂を鎮め自分の本来の位置を取り戻していった。

2 件のコメント:

moonchild さんのコメント...

今、この問題にハマってしまいました。

hanamizukiさんの書いている事が今の自分に当てはまってよくわかります。

抜け出すのにやはり1年はかかりますか?

もっと早く抜けられないでしょうか?

hanamizuki さんのコメント...

コメントありがとうございます。過ぎてみれば愛だったと思えるときが必ず来ます。自分でしか超えることができない、神様が自分に対してすがるように託された使命だと捉え、焦るでもなく逃げるでもなく、大きく構えるでもなく卑下することもなく、目の前の戦いを一進一退であったとしても挑んでいって下さい。空との戦いのようですが明らかに戦う相手としての様々な霊存在がいます。必ずひとつふたつと根気負けして自分を取り戻す時が来ます。ねじ伏せた霊こそ、これからの貴方にとって大きな発展をもたらすはずです。