2008年7月14日月曜日

捉え方の違い

責めようが問い詰めようが、それで変わるとは思えない。こんな小さな店に対してどうこう言うこと自体おかしな話ではある。所詮どの店だってどんぐりの背比べだ。こんな低い次元で蠢いているのが御父様の願いでもないだろうし、中心者の願いでもない。この世でそれなりに成功している企業と天の願いを受けてビジネス活動をしている我々との間で、明らかに異なる点とは一体何であろうか。人材の優劣の違いがそれ程に大きいのだろうか。価値観の違いもあるだろう。教育の違いもあるだろう。確かに自分で選んだ仕事でもない。しかし明らかに彼らにはあって我々には無い意識があるはずだ。実力なり技量は最初から備わっているものではなく、その高みに向かおうとする意志により備わってくるものだろう。意識が無いところに意志は育たない。彼らに備わっているその意識は我々とは無縁のものなのか、み言葉を持って備えられる価値観でその意識が出てくることはないのか。ある兄弟が大母様にどうして我々のビジネスは難しい問題が山積みなのかと問うた時、それはみ旨であるからと答えが返ってきたようだ。み旨とは神様の願い即ち天国実現の為の歩みであろう。み旨であるからという捉え方はみ旨を進める為のビジネスという二次的な捉え方ではなく、我々のビジネス活動がみ旨そのものであると捉える必要がある。伝道であるとか大会であるとかはみ旨という意識が働くと思うが、ビジネス活動それ自体がみ旨だという意識がどれほどあるだろうか。み旨という捉え方を完全にするなら、何が何でも稼げばいい、というような意識でみ旨とはなりえない。稼ぐ前にどれだけ為に生きたかであろうし愛したかということになる。そんなことに思考をめぐらせば、我々は御父様の願われるビジネスと我々の思っているビジネスとは明らかに違ってくる。捉え方の本質に於いて勘違いがあるなら、どれだけ大きくならない儲からないと悩んでもお父様の運勢圏には入っていけない。み旨とは関係の無い異質な行動でしかない。

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