2008年7月3日木曜日

今日の想い 2

自分の目標は何かと自問して応えられない食口は多いはずだ。摂理の中で歩むとしても摂理の願いが自分の願いであるという認識を自覚していない。自覚がないのであれば自分は摂理の中に身を置きながら違う空間を彷徨っている。献身して全てを捧げていると言いながら自分の夢なり目標が摂理の願いと一致していない。高邁な意志を持って飛び込んでは見たものの、浮くことにやっとで目的地が定まっていない。波間に浮かぶ浮遊霊のように魂が薄れ無表情な群れに何が為し得よう。主の名を連呼しながらも既に嫌気が差し下手に泳いで疲れることを心配して敢えて危険を冒そうとはしない。この世的生活の中にどっぷり浸かる訳でもなくしかしかといってみ旨に邁進する訳でもない。自分の魂の在り様の理想型を捉えることが出来ず、今の在り様から離れることが出来ない。御父母様の魂の在り様こそ自分の目指すものでありながら遥か彼方、届きようも無い次元にあるものと諦めて、救いとは本来御父様と同じ次元の在り様に近づくこととの認識は何処かに捨てられ、ひたすら内面の慰めや形の上での信仰生活に心を砕く。酒を飲んではいけないタバコをすってはいけない、あれをしてはいけないこれをしてはいけない、するなと言われた事柄だけを意識するだけで、なすべき事に正面から向き合い対処しようとする意志の姿勢を見出すことはない。札束が舞い上がるこの自由経済に身を置き、更に摂理を進めるためにいくらでも札束が要求される状況で、百ドル千ドルのはした金が何の役に立つのか。清貧をよしとする気持ちに異論はなくとも、我々が捧げる生活費から捻出される微々たる金が役に立つとは思わない。出して貧しくなったのではなく、ただ生活能力に欠けるために汲々としているだけの話だ。願われるものに応えていきたいというそれなりの温度を感じるものは、そこにはない。その辺の乞食にくれてやるようなはした金を献金箱に入れ続けて申し訳ない思いどころか一人前の信仰者気取りでさえある自分は御父様の目にどう映るだろうか。自分に対する御父母様の願いが何であるのか真摯に尋ねたことがあるだろうか。自分の中に夢は理想は生き続けているだろうか。熱いものを自分の中に感じたり受け取っているだろうか。御父母様を想うて熱い涙を流しているだろうか。

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