2008年7月20日日曜日

今日の想い 3

天国はどういうところかと問うてみて、花咲き乱れ小鳥が飛び交い、住人は白い衣などを纏って笑みを称えながら、何の不自由もなく暮らすところ、と想像する。地獄はどういうところと問うてみて、辛うじて目が利く薄暗い中を、罵詈雑言が至る所で浴びせられ、惨たらしい絡み合いに溢れ、あるものは火あぶりにあるものは煮え湯のなかにのた打ち回る様を想像する。天国の描写は胡散臭いものであっても、地獄のそれは当たらずとも遠からずだろう。人間はたまに天国を垣間見ながら実のところ生きて地上地獄に暮らす。自分の中で罵りあい自己中心の思いに羽交い絞めされながら、情念の火に炙られ自己欺瞞の煮え湯を浴び続ける。矛盾する自分をどうすることも出来ず、周りの存在を醜い思いで識別し、肉的本能の思いと沸き立つ感情に振り回されながら毎日を漂う。この眼に飛び込む自然は欲の無い美しさを見せるが皮一枚隔てた自分の内側は我欲という腐臭物に溢れ光届かぬ自己中心の暗黒の只中に暮らす。この腹を掻き切って、燦燦と輝く愛の光に曝したら、醜い思いは焼き消されるのか。そうして嘘偽り無い自分となる時、神様は私を尋ねて下さるだろうか。内なる全てが焼き消され、新しい自我と言う宇宙にこの自然が投影され、真の愛で光輝く恒星を戴き、一点の影もない自我の存在が創造される。泣いても泣いても尽きることの無い貴方の涙に溢れ、その後至るところに貴方の愛おしい想いが宿り始め鏤められる。天国は誰かに案内されて落ち着くところではない。そこは天国ではなく他人の家だ。自分が住まう世界を地獄と認識するなら、地獄を天国に変える為に苦労し投入した分、即ち愛した分、それだけ自分が住まう天国に変わっていく。行くと言う概念で天国は表されるのでなく、天国は築き上げると言う概念の中にある。

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