2008年7月28日月曜日

今日の想い 4

レコードプレーヤーが我が家に来たのは中学に入ってからだった。まだ寮生活に入っていなかったから恐らく統合前の分校に通っていた頃だと思う。回転皿に針を落とす腕が付いただけの、シンプルな作りの安物だったが、寂しい何も無い田舎の家では高価なものの一つだった。自分が最初に親にねだって買ったレコードがビートルズのレットイットビーだった。ラジオから流れる都会的臭いのする歌謡曲を聞くことで土臭い田舎から逃避していたが、たまにかかるその曲は、そういった類の感覚とは違う、自分に無い新しい何かを与えてくれた。乾ききった喉に味わったことの無い炭酸水を流し込むように、その曲を耳にすることで、かつて触れた事の無い清涼感を味わった。それがどういう類のものかわからなかったが、何度も何度もレコード盤に針を落としながら、独特なピアノ伴奏から始まる旋律が胸を揺さぶり涙腺を緩めた。今思えば当時、神の愛の何たるかを触れさせても直接には受け付けない魂に、ひとつの前段階としてクリスチャンの香りのする文化に接することで、み言に繋げようとされた背後の配慮を見て取れる。救いであるとか清めであるとかのキリスト教的感覚が、その曲を通して発芽し芽吹いてくる。その段階を踏まえることなしに神様や父母様に仕えようとする今の魂の在り様は考えられない。その当時手にした文庫本の塩狩峠もそのひとつで為に生き為に死ぬ登場人物の生き様に魂が突き動かされた。自分自身が導かれた復帰の路程を振り返りながら、真の愛への感覚を他に芽生えさせる自分、影響を与える魂の在り様になっているかが問われる。自分の子供をさえ感化できない自分でありながら、周辺や従業員に対してこうあって欲しいと思うこと自体問題なのだ。自分の魂のあり様がステージを上げない限り状況は変わらない。

0 件のコメント: