2014年7月19日土曜日

今日の想い 766

みんなそれなりに長い信仰生活を歩みながら、いつのまにか惰性的になり、そして疲れている。もし私の思い違いで、本当は多くの兄弟食口が信仰に燃えていると言うのであれば、嬉しい勘違いなのだろうが、おそらく疲れているというのが現実だろう。自分自身を鼓舞するようにみ言葉に向かっても、祈祷を重ねても、条件を供えても、遥か昔の復帰された当時の心霊は取り戻せない。人間に思春期があるように、教会にも私の信仰にも思春期があるようだ。思春期は取り戻せないけれども、しかし思春期を通り過ぎたからといって信仰が消え失せる訳ではない。本当はある期間を経ることで信仰のステージは上がっている。上がっているのに過去を振り返ってばかりでその当時を懐かしく思うばかりでは先に進むことはできない。今のステージには今のステージでしか活動出来ない信仰の在り様がある。疲れないように歩みなさいと御父様が言われたのは、疲れるようになるだろうという前提で語られたことだろう。疲れてしまえば、何とか信仰の思春期の心霊を取り戻そうと、分派の活動に関心が向いたり、教会に対して批判したりしてしまう。思春期の心霊状態は取り戻せないにしても、長い信仰生活の中で様々な垢が付着しており、垢落としをして白い心霊を用意することはできる。様々な問題の認識は、何らかの理由をつけて自らを正当化し、感謝の想いが影を潜めているか、為に生き、与える行動に躊躇することによっている。御父様は収容所の中で、僅かなムスビの半分を与えてまで敢えて他の為に生きたのであり、週に一度だけ与えられた食事を全て食して敢えて感謝の想いを供えた。御父様がそこまでされて基準を示されたことを私達は忘れてはならない。疲れているなら疲れているなりにも発電して、僅かであってもみ旨への献身を差出すべきだろう。あるから与えるのなら誰にでもできる。ない中でもそれでも与えてこそ御父様の息子であり娘だと言える。そして感謝できないなら敢えて今の位置から更にマイナスの位置を甘受して、週に一度元の位置へ戻してでも感謝の想いを持つべきだろう。神様は飴と鞭で私達を教育するのだろうか。それとも真理と神霊で私達を成長させるのだろうか。鞭ばかりで飴をくれないと嘆くのではなく、真理と神霊でこそ、すなわち御父様の知恵と御父様の心情でこそ乗り越えることができる。

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