2014年7月21日月曜日

今日の想い 767

私はというと、同じように不安と戦い、絶望と戦い、躊躇する自分と戦い、一歩踏み込む毎に見え隠れする恐怖と戦っている。心身一体圏、父子一体圏こそがこれらの戦いを突破できる武装されたトランスフォーム体なのだと思うが、その完全なる一体圏を未だ習得できていない。み言葉に向き合いながら無知にも程があるだろうと、自分に対して吐息が出るほど情けないが、本質を受け取れないまま時間だけは過ぎていく。こんな状態で天の父母様は訪ねて降りては来られないし、御父母様も最初に御食事を差出した時と同じように、そっぽを向いたまま視線を合わせては下さらない。この悶々とした日々を永遠に積み重ねていかなければならないのだろうか。積み上げた先に一体圏が現れるのだろうか。これでは死ぬにも死に切れないだろう。どこまでも能動的でありたいけれども、正直なことろ高みを目指すに疲れている。自分の心に聞け、良心に聞けと言われるけれども、私の良心も未だ黙したまま口を開かない。今日もまた目が覚めると同時に待ち構えていて襲い来る不安の化け物、絶望の妖怪、地を這うことをやめない躊躇する自分、それらとの消耗戦に翻弄される。私はこの自分そのものですら怨讐だ。怨讐である自分をどう愛すればいいのだろうか。心身一体など夢のまた夢だ。堕落の血が恨めしく、抜き取っても抜き取っても未だに皮膚の下で蠢いている。パウロの告白は私の告白でもあり、御父母様の祝福を戴いた私であるにもかかわらず、同じ嘆きとして私の中で叫んでいる。別にこの世的な人格者を標榜している訳ではない。霊的な視聴が開かれるのを望んでいる訳でもない。責苦であろうが虐げであろうがいくらでも甘受する。しかし私の底の方で、心身一体圏、父子一体圏には辿りつけないという不信が居座っていて、その不信を払拭することができないでいる。子として認められたいけれども、子としての扱いを受けているとはどうしても思えなくなる。その愛の減少感でもって高みを望もうとする力に変えるのではなく、自分からも愛さないことで相殺させようとする。だから戦いはするものの、どうせ負け戦だと開き直っている部分がある。この私の中にある限界線をどうにも突破できない。心身一体、父子一体で限界線を越えて、届くべき境地に届きたい。今日もまた、捨てられて忘れ去られた愛の減少感で胸を締め付けながら、それでも今日を生きようともがく。未だその本質を掴めないみ言葉のひとつでもしがみ付いて、今日の一日を生き抜いていく。私が知らないだけで、天地開闢の天の運勢圏に突入した者達が既にいるのかも知れない。そうであるなら何としても教えを請いたい。私が訪ねていくには御父様は遥か彼方の高みにおられ、私の心情の足では遠すぎて千年万年かかってしまうだろう。今、私の中に訪ねて下さる御父様だという確信が揺らごうとしている。主体の私がこんな状態で、妻に希望を持たせ、子供達の吸引力になれるだろうか。一度でいいから、神様が地の底から立ち上がることができない私を尋ねてくださって、ただ抱きしめられたい。

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