2014年7月22日火曜日

今日の想い 768

新しい一日だ。朝に目が覚めるその意識の一瞬は確かに真っ白だ。真っ白な自分をその瞬間に自覚できる。その瞬間を置いて、昨日や過去との延長にあるもの、置かれている現実、様々な感情が一挙に雪崩れ込んでくる。そうして溜息混じりに体を起こす。現実が意識の大半を凌駕してしまって、そこからやおら理想の旗を掲げて戦いに挑むとしてもなかなか難しい。逆に目覚める瞬時に未来的な希望を、理想的内容を、理想的感情を、現実を意識する瞬前に一挙に投入する。そうすることで、もちろん現実は現実で雪崩れ込む訳だけれども、それでも理想の版図を少しでも広げられる。たとえ時間と共に現実に凌駕されていくにしても、それでも理想の我が内面にあるうちは理想を意識できる。理想を意識することで僅かであっても理想の実体化が進められる。自我意識が自体自覚という堕落意識によって占められている以上、その隙間をしてでも他体自覚の理想的意識を投入する必要がある。隙間が生じるのは目覚めの一瞬にしかない。夜の私から昼の私への瞬間を占領して自我改革をするしかない。霊の呼吸として夜に為される霊の吸引と、昼に為される霊の排出の、その狭間で改革するしかない。訓読会も早朝であるべきだが、仕事の関係上なかなか時間を取れない。仕方なく今は夜休む前とかに訓読しているけれども、早朝にやることの意味は確かに大きいのだろう。現実の意識が雪崩れ込む前にみ言葉を投入して夜と昼の私の狭間でみ言葉による改革を施す。そう言えば以前777双の中心者に朝を奪われる者はその日一日を奪われると教えられたけれども、確かに当たっている。泣き事のような内容もアップしたけれども、私の現実を表現するなら悲しいかなその通りだ。その通りでもがいているけれども、だからこそ人一倍み言葉を求め、御父母様の御心情を求めなければならないと意志すべきで、その意志の中に必死の想いで神様が私に働きかけておられるのを見なければならない。新しい一日が始まると私の意識は瞬時の思い思いをその日一日辿っていく。ただ内面にあるものだけを辿っていくのか、はたまた内面と通ずる異次元から流れ込ませて意識的に思いを創造し続けるのか。内面にあるものだけを辿っていくなら時間の流れに主管されていることになり、内面にない新しい思いを意識的に創造し続けるなら逆に時間を利用しているし、創造する時間を押し出している。今日の一日を意志するものとして生きるとはそういうことだろう。

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