2014年7月24日木曜日

今日の想い 769

御母様を人間的に見ている。人間的にという意味は人情的という意味でもあり、堕落人間の立場から見ているということでもある。御父様を見るにもそうであるけれども、この目で見てイメージしている御母様が御母様の本当の御姿ではない。人間、特に堕落人間と言った方がいいかも知れないが、人間には霊的位相を見る目がない。肉体的な御母様を見、あるいは心魂的に優しさだとか気高さとかというイメージをして御母様を見ているけれども、しかし霊的神霊的位相としての御母様の姿を見ることができないでいる。要するに本人は御父母様を認識していると思っているけれども霊的な感性が開かれていないのでその観点からの認識ではない。霊的認識の段階はイメージからイマジネーション的に、そしてインスピレーション的に、さらにインテュイション的にと霊的感覚を高めていく。実は肉的五感と霊的五感は表裏一体なのだが、人間の意識は圧倒的に肉的五感へ光を当てるのみなので、背後にある霊的五感は照らしだせない。よって信じている御父様のみ言葉によって立てる推論として、御母様を御母様として認めている訳だけれども、霊的位相を見ることができれば自分なりに受け取ったみ言葉から推量する必要など無く、御母様は明らかに御母様だと認識する。しかし霊的位相を見ることができない人間にとって御母様だと推量するにしても、御父様の妻であるとか、私達の母であるとかという地上的平面的な観念以上の認識をとらえることができず、勝利された御母様、神様の妻の位置に立たれておられる御母様、さらに御父様を産み出した御母様という認識については平面的言葉の持つ意味以上にはならない。私達は認識に限界があることを再確認して、御母様に対する理解も認識も不十分なものであることを自覚しなければ、ここまで信仰を繋ぎ精誠を供えてきたのに、御母様に対する決め付けた限定的認識によって足を払われてしまいかねない。先回語られた御母様のみ言葉は、私達の御母様の認識を揺り動かすものであり、霊的神霊的位相に一歩も二歩も踏み込まれた言葉だった。私達が先ず悔い改めるべきは御母様に対する限定的に決め付けた認識だろう。そしてさらに、摂理の遅延、基元節以前に御父様の御聖和を迎えねばならなかったことは私達祝福家庭の責任であるにも関わらず、誰か他の責任でもあるかのように負債を覚えていない。御母様は御自身がスイスで精誠の条件を立てられて、そんな私達を許して白紙の状態で接して下さる。私達は御母様に対して、「どうか私達を許さないで下さい。犯した罪に対して鉄槌を下して下さい。」と言い寄るほどであるべきなのに、何の負債も感じないのか平安な気持ちで笑っていられる。御母様は私達に対してもっと厳しくあるべきだと思う。許す必要もないと思う。私達が失敗してきたのは、信じる基台もない私達に御父母様があまりにも許して信じてこられたからだ。この群れに今必要なのは過酷さであり厳格さだ。

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