2014年7月9日水曜日
今日の想い 763
アメリカでは今、聖地巡礼ツアーが行われている。御聖和2周年に向けて、御父様が決定された聖地を巡礼することで悔い改めて原点に立って仕切り直すことだと思っている。外的には全員参加は無理だとしても、内的には必ず全員参加して悔い改めと再出発する必要があるだろう。内的な聖地巡礼は記憶として残っている御父様との因縁巡礼だ。御父様との内的出会いをひとつひとつ思い起こしながら、その出会いの時の心情に立ち返るということだ。御母様は、「清平役事は天が聖別して育ててこられた大母様の特別権限であるので、あれこれと言ってはなりません。」と言われた。私達はあまりにも外的に、より外的に物事を見て判断してしまう堕落的習性が、雑草のように生えてしまったらしい。外的な観を立ててしまい、その観の上に立って更なる外的な観を立てていく。そうしながらアダムとエバが自己を中心とした自己判断に陥ったように、知らないうちに堕落的習性を堕落的とも思わない自分になってしまっている。外的な私を主体に置いて外的な状況を見るのか、あるいは内的な私を主体に置いて内的な状況を先ず見るのか、それで私の立ち位置は180度異なる。内的な私を主体に置くとは、内的な私が中心となる。内的な私が中心となれば、外的な私が外的な状況を見るのと異なり、外的な私からいうと外的な状況を裏側から見るということになる。そうやって内的霊的目を用意する者だけが霊的事実に近付ける。目は外に外に向けるのではなく、内に内に向けなければならない。ああだこうだと言うなと言われる御母様は生きた聖霊実体の御母様であられ、神様の一人娘であられ、御父様を天宙の勝利者として産まれた御母様であられ、私達の真の御母様だ。御母様の言われた言葉に対して真だ偽りだと判断すること自体、御母様を真の御母様とは認めていない。御父様が聖和されて既に全てが終わったかのように、それは悪い意味で終わったと捉える者も良い意味で終わったと捉える者も同じように御父母様の願いに立ってはいない。私達は為すべき何事も終えてはいない。何事も終えてはいないのに何が終わったと思っていい加減な生活を営んでいるのだろう。蕩減条件を幾重にも幾重にも積み重ねてきた自負があるなら、基元節を越えた今こそ打って出るべきだろう。生命を投げ打って新しい歴史の環境創造に馳せ参ずるべきだろう。今の時を味方につけるなら、本当に味方につけるなら、外的な位置に立てばあり得ないと思える氏族メシヤ使命完結も、南北統一も、世界復帰も為し得て余りあるだろう。この世からして見れば所詮気の狂った群れだ。気の狂った群れで上等だ。更に気が狂ってこそ真人となり得る。気が狂いでもして前進する者でなければ統一食口ではない。
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