2014年7月19日土曜日

今日の想い 765

人間が肉体を持っている以上、肉的欲望は常にある。肉的欲望があることが肉体が生きて健全であることの証しでもある。肉的欲望とは肉的な刺激を求めることだ。肉体は肉的五感の刺激を常に求めている。目は美しい形と色合いを求め耳は美しい調べを求める。触れるによいものを求め味わいも求める。しかし人間が複雑なのは、五感を通して性的な刺激を求める存在でもあるということだ。性の刺激は純粋な肉的五感の刺激のみならず、心魂の刺激でもあり、さらには霊的刺激だ。そしてその刺激には愛が関わっている。それが真の愛か貶められた愛かはここでは論じないが、性は確かに愛が、もっと言えば横的な肉的愛も精神的な愛も関わっている刺激だ。性の刺激を求めるに何が動機でありどう主管するかがそこにどんな愛が関わるかを決定している。刺激を求めるままに行動して、そこに真の愛が関わることはない。真の愛が神様から来る縦的愛である以上、縦的なものを無視した横的行動に真の愛が関わることは無い。肉的愛の一方で精神的愛がある。肉的愛はより横的愛であり、精神的愛はより縦的愛だ。性的刺激への衝動をどう主管するかだが、創造本然の人間であればその衝動は起こらないという訳ではもちろんない。しかしその衝動は精神的愛が先ず重んじられてその許可を得る形で肉的衝動へのアクセルもブレーキも踏まれるはずだ。もし肉的衝動そのものだけを肯定するなら、フリーセックスの神であるか、或いは性的衝動も肉的愛もサタンから受け継いだものかのどちらかに断定するしかなく、そうなると創造本然の人間の絶対性は否定されるか、創造理想的には性の喜びなどあり得ないことになる。しかし創造本然では絶対性であるし本然的な性の喜びもある。人間は堕落して偽りの愛と真の愛の区別がつかなくなったから性の衝動に主管され惑わされる。堕落人間としては外的な性的愛への魅惑ばかりが愛の強い実感を受け取るのであって、それが多くの場合偽りの愛によるものであることを知らない。性的衝動の強い者は業が深いとよく言われる。しかし性的衝動が強い者は実は精神的衝動も強い。縦的な愛であれ横的な愛であれ、どちらも同じように能動的な力が必要であって、その力の方向性を正せば神霊を強く求めるのであり、性的愛を越える愛の刺激を精神的愛を通して覚えるようになる。天との深い心情的一体感を覚えて相対に向かう時は、肉的五感を遥かに越える愛の刺激を受け取るだろう。神様の結婚式を挙げると言えるほどの御父母様の境地には届かないにしても、その場には確実に私を越えたより天に近い高次の男性性が介在し、相対の中にも同じように高次の女性性が介在している。

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