2014年7月7日月曜日

妄想だと思われても、、。

時間だけは異常な速さで過ぎていく。あれはどうしよう、これはどうしようと思いあぐねているうちに、時間は容赦なく過ぎ去っていく。まさしく取り返しのつかない一刻一刻の時間を垂れ流しにしている。もはやこの時間の急流を堰き止めることも、緩やかにすることも誰もできない。人が死に向かって突き進んでいるという自覚を煽るが如くに、今の時代は先天時代を葬るために、過去に通用していた策略の全ては時間の急流にかき消されて意味を為さない。良かれと思った手段が一歩先に進むと、次々と現れては消える新しい状況に対処しきれない。だからといってままよと何もせずにおれば確実に淘汰されてしまうだろう。洪水に押し流されるこの状況で、様々な障害物に叩きつけられてしまう自分を生かす為には、死生決断しかありえない。いつ犠牲の藻屑となって波間に消えようとも、消えるも何も時間の流れと自分は一体だという見地に立てれば、時間の流れが私を目的地に連れて行ってくれるはずだ。私自身が時間の流れになればいい。それこそが死生決断だ。時間の流れに同参して、時間の流れの最先端に位置付ける私になれば、一瞬先を制する私になれるだろう。天の父母様が時空を越えた御方であられる意味は、時空を制する存在を従える位置に立っておられるということだ。私が時間の流れの中に生きているという認識から、私は時間の流れと共に生きているという認識、さらに、時間を制する存在は同じ兄弟であり同胞だと認識できるほどに意識を高められれば、私は三大王権の過去、現在、未来の王の、現在の王権への道が開ける。御父様が使われた王や王権という言葉を、何処か異次元の世界の言葉と思っていたけれども、時間の流れに翻弄される状況下で始めてその言葉が私の中に浮上してくる。時間の流れが心魂への気付きを与え、心魂が知情意のある段階に留まり続ければ時間の流れが制裁を与え、時間の流れが心魂を癒してもくれる。私が時間の兄弟になれるとすれば、気付きを与える時間の叡智を知ろうとし、怠惰な私を叱咤する時間の意志を知ろうとし、癒しを与える時間の情を知ろうとするところに、時間の本質からくるところの時間の人格性を感じることができれば、時間を我が友だと言うこともできるだろう。これがおかしな言い方に聞こえるとしても、私達の時間や空間に対する概念は99%機械的であり、それは霊的なものを無視した唯物観的な概念形成から来ている。それは太陽系や銀河系を機械的に理解しているのと同じことだ。霊的見地に立つならば、妄想的だと言われようともそこに人格性を見出すのでなければ、唯物観を壊して霊的事実に立つ私を取り戻すことはできない。霊的見地に立てる人は、より詩人でありより芸術的な捉え方ができる人だ。

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