2014年10月11日土曜日

今日の想い 799

私は死に対して、期待感はあっても恐怖感は全くない。しかし霊に対する恐怖感はある。勿論生きて為す使命があるから、道半ばで逝くということになると悔いはあるとしても、しかしそれは恐怖感ではない。霊界が存在するという認識を持つということは、恐怖感は軽減されるけれども恐怖感が全くなくなる訳ではない。恐怖感が失せたのではなく、霊界があると信じることで恐怖感を見ないようにしているだけだ。私は霊界を信じるのを越えて、地上で生活感をもって生きているように霊的生活感もある。もちろん私の霊的五官は肉的五官のように冴えわたってはいないので、曖昧で未だ鈍感ではあるけれども、それでも霊的見地に立てば大きく対処を間違えるほど暗くは無い。ここアメリカに住んで生活していると霊は随分とあっさりしたものだが、日本に帰ると途端に霊の存在を強く感じる。その存在が心地よい部分もあるし、また煩わしく重い部分もあるとは言えるのだが、、。そしてさらに故郷である田舎に帰ると、霊が忽ち押し寄せてきて恐怖感として現れる。それは地域的なものというより、ある程度の霊的感性を備えて生まれた私、使命を担った私に霊達がすがりつくことで、背負っている重荷を引き受けて欲しいと依ってくるからだ。その恐怖感は小さな子供の時分からあって、それ故に追い詰められて精神を病んでしまいそうにもなり、ひたすら故郷から逃げ出したかった。高校は広島まで出て、月3500円のあばら家アパート住まいをしたが、田舎に比べれば、あの蕩減の重い広島が随分軽く思えるほどだった。そして、距離的には逃げに逃げて、ついに地球の裏側までやってきた。しかし、距離は遠くにあっても、あの郷里に行けば重くのしかかってくる霊達の解放に対して責任がない訳ではない。田舎では臥竜の山が里を見下ろしている。事件が起きるまで、まさかこのなだらかな山が舞台になるとは思ってもいなかったが、現実のものとなった。表面上はこの山のようになだらかな故郷の毎日がずっと続くと思っていたが、感じていた恐怖感が現実化した。地球の裏側にいてもそのニュースは即座に飛び込んできた。モレブ山のイサクの献祭は父子の一体化で避けられたけれども、臥竜の山は犠牲が現実のものとなり無残な形で供えられた。山は頭や胴体の切断された犠牲の血で染められてしまった。この地が故郷である私の使命は霊視して犯人捜しに一役を担うことではない。現実となった霊的背景を受け止めて鎮魂することだ。そして霊の解放だ。2009年11月6日に発見されたが犠牲者は10月26日から行方不明だった。となると2週間近くは発見されぬまま転がっていたことになる。5年経った今でも、その日が近付いてくるとその事件が想起される。この事件を知ることになった時、故郷で感じていたあの恐怖感が即座に蘇えった。実は勘違いしたことがあって、恐怖感は恐怖を与える霊の存在に囲まれているからだと思っていたが、事実は恐怖を感じている霊だから共鳴して同じように恐怖感を覚えたということだ。この霊達を救わない限り、故郷に足を踏み入れて氏族メシヤだ復帰だなどと口にすることすらおこがましい。もちろん犠牲となった女性も浮かばれない。

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