2014年10月9日木曜日

今日の想い 798

教会にとってある子女様の行動が問題視されたとき、先回記した、「愛が愛らしく」という言葉が先ず私の中に想起された。子女様の行動は教会の規律どころか原理原則さえも越えて、自分の愛を全うすべく行動に出られた。その行動は食口の誰もが批難し、たとえ子女様とてこの行動は御父母様の願いに反すると誰もが思った。もちろん私もその一人だ。しかし私にはその行動が、「愛が愛らしい」と思える愛の行動だと、それは批難が増せば増すほどにその愛は光を増すと思われた。一方で首を傾げ批難の言葉も思い浮かんだが、しかし一方では愛だ愛だと口にしながら、教条的で死んだ愛としか思えない愛の抜け殻が幅を利かせている中で、唯一、というか目を覚まさせるような愛らしい愛を子女様の行動に見た思いがした。愛が、原理原則の権威への恐れから、或る意味行儀良い愛、安全な愛となり、それもまた愛の姿ではあるのかも知れないが、「愛が愛らしく」という表現には愛の観念を覆し、リスクを負うような愛の行動、愛の姿も否定されずあってこそその表現が成立すると私には思われて、清々しい気持ちもあったことは確かだ。残っておられた二人の御子女様の祝福に対しても随分批難している者達がいるが、多くは御父母様を否定し教会に反発する者達の批難であって耳を傾ける必要もないのだが、それでも今までの祝福状況とは異なるので食口の中にも少なからず波風が立ったことはそうだ。恋愛結婚で祝福の伝統は守られるのだろうかと心配する者や、私のように随分祝福の門が大きく広がって喜ぶ者やいろいろだろう。しか祝福は祝福だ。たとえ今までの基準を問うことはなくなっても、それでも祝福だ。御父母様が許可し、責任を取るから祝福であって、受ける側がどうこう疑問を呈する問題ではない。これで間違いなく二世達の祝福は増すのであり、祝福の世界化も一気に広がっていく。それがどれだけ喜ばしく有難いことだろうか。御父母様は確かに人類の御父母様だと再確認できて、讃美の声を張り上げたいほどに嬉しかった。祝福に依らなければ霊肉の救いはない。祝福の門が広がったことは救いの門も広がった訳で、御父母様の勝利圏による人類の救いを地上で、そしてこの目で見届けることができる。先の御子女様の懸案について御母様から言及されたことは未だない。いや、何も聞いていないのでないと思っている。それでも真の御家庭のことであるし、後々には何らかの御言葉があると思っているが、それもない間に責任の無い立場で好き勝手なことを口にすべきではないだろう。それでも私個人にとっては、愛の統一教会でありながら愛の臭いも香りもしないと長い間感じていたが、批難も甘受し霊的生命の危険さえも犯して愛に生きる御子女様の大胆さは、愛が実に愛らしくなってきたと思える大きな出来事だった。断わっておくと、私は好意的には感じているけれども、それを善だとも悪だとも誰かのように判断はしていない。暑く激しい愛の呼吸をその子女様に見ているだけだ。

0 件のコメント: