2014年10月8日水曜日

今日の想い 796

一度は御父様を慕い侍った過去があったろうに、それも全てを捧げて搾り取るほどに投入しただろうに、その反動からか御父様と教会を責めるその言葉には呪いの毒気さえ見て取れる。彼等の発信は青春を返せと叫んだような恨み事なのだろうか、それにしては目覚めた(?)ことが誇らしそうでもあるし、或いは騙され続けている食口達を目覚めさせようとしているのか、そうであるなら馬鹿にしたような随分な上から目線では余計に頑なになるだろうことは想像にかたくないと思えるのだがどうだろうか。結局は糞尿をあたりかまわず撒き散らし、知らないうちに自分も被ってしまうというその程度の存在にまで自分を貶めている。発信すること自体に意志を傾けていて、教会の飯を口にした時があったからたまたま記す材料に事欠かない教会のことを書き連ねているに過ぎない。発信することで私は存在しているという自己アピールをしたいのは良くわかる。私も同じだからだ。しかし言葉というものは恐ろしいもので、口にしたそれを条件として霊がそこに居座るようになる。そして霊が霊を呼んで拍車をかけた言葉を口にするようになる。記すという言葉を残す作業には更なる霊の実質化が加速される。それは善霊であっても悪霊であっても同じことだ。善霊はさらなる善霊を呼び、悪霊はさらなる悪霊を呼ぶようになる。ネットがツールとなって簡単に発信することができるようになったからその影響は大きい。自分が発信し始めた当時の記事内容と今のそれとを読み比べて見ると良くわかるはずだ。利口になったか?おそらく利己にはなってきたのかも知れない。先天時代は利口がサタンの武器だったから知恵がつけばつくほどにサタン的活動に懐柔されてきた。俗に言う頭がいい者ほど共産主義にのめり込んでいった。言葉はそれほどに恐ろしく、或る意味魔術的で、霊的に見れば言葉を使うことは黒魔術にもなり白魔術にもなる。こんな言い方もおそらく妄想食口でかたずけられてしまうのはわかっていて、反対派から妄想呼ばわりされるほどに認識して戴いたことはブロガ―冥利に尽きるけれども、彼等の半端ないこれからの蕩減内容を思うと心が重い。彼等の中には知ってか知らずか神様の愛が絶対的であるなら赦しも絶対的であると暗に踏んでいて、敢えて御父様を刺激し現役食口を焚きつける者もいる。ちょうど天使長ルーシェルが同じ道理で神様に挑戦状を叩きつけた如くにだ。しかし愛と赦しを期待する以上、愛と赦しを身を持って、或いは血統を持って体験する過程を通過しなければ期待する愛と赦しの実感的概念も備わらない。騙したことに対する赦しは、等価からそれ以上に騙されて騙した相手の心情に通じてこそのものであって、それを蕩減というのであり、その過酷さを知るから良心作用が働く。人間に最初から自由性が与えられたのはそれ故にアダムとエバが堕落したことからして明らかだ。自由性は責任が伴うのであり、責任が伴うからこそ過酷な蕩減内容を人間は負う。頭のいい彼等にその理屈がわからないとは思わないのだがどうしてだろうか。恐ろしい神様であるという認識がないらしく、何でも許してくれる神様だという妄想に取りつかれている。彼等は私を妄想食口と呼ぶが、私に言わせれば彼等こそ妄想の中の妄想に住んでいる。

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