2014年10月19日日曜日
今日の想い 800
霊とは無縁のところで活動し生活しているように思えるけれども、すべての現実は霊界で起こっていることの表象であって、その現実を通しながら背後の霊の活動を見通すことが必要だ。それはいかにも特別の技術を要するように思えるが、実は技術というより想いを供えることで相通じるものがあって、そこでやり取りされるものこそ愛の霊素だ。生霊要素と表現していいと思う。私達が通常愛としている愛は表面的なもので、愛と真の愛との違い、表面的通常の愛とその愛を愛と為さしめる根源の愛、本質的霊的愛との違いを分からなければ、真の愛の概念に近付けないしは受け取れない。真の愛の概念を受け取った者は背後の霊の活動を手に取るように見通す。能動的に自分の意志をして愛する、愛を与える、為に生きる者でなければ真の愛の概念を受け取ることはできない。私達の問題はみ言葉を言葉としてのみ受け取っているので、実に受け取り方が観念的であるということだ。しかし生きて生活するのは観念的ではなく現実なので、み言葉をどれほど勉強しようとも言葉から実生活に落とし込まなければ観念的なままであり抽象的な愛と信仰生活に留まるしかない。殆どの人は職場という環境の中で多くの時間を費やすが、この時間とそして職場というスペースをどれだけ自分の想いで満たそうとしているか。精誠を供えるという素晴らしい言葉を私達は持っているけれども、精誠を供えるには時間的な側面と空間的な側面が必要であり、分けて行動できる訳ではないが、時間に刻みこむ精誠と愛、空間に落とし込む精誠と愛を意識的に為してこそ、時間の神霊と場の神霊が共にいて背後の霊の活動に働きかける。御父様は1秒の違いで様変わりする霊的環境を見通しておられ、宣布や儀式、あるいは通常の訓読会に於いても何分何秒に至るまでこだわられた。また場所場所によって異なる霊的環境も見通され、よって世界聖地の決定もされたのであり、また、いつも急に思い立ったように移動され行動された。御父様は時間の神霊と場の神霊を把握しておられた。真の愛こそが全てに通じ、真の愛の光で数千数万年前の過去にも、或いは未来にも照射して見通せる。真の愛の光で地球のどこにも、宇宙の果てにでも照射して見通せる。背後の霊的背景を見通しながら、それらの霊と真の父母との関わりは私を通して為されるのであって、彼等の霊的復活は私を通して真の父母から来る真の愛で為される。願われる御父母様がおられ願いを受ける私がいるという観念だけでは私を中心とする摂理は一向に進まない。地上に実りを見ようとすれば霊界の協助は必然であって、救いを受けたいあらゆる霊達の叫びを感じつつも、彼等の功績は必ず天に繋げるという霊達の信頼を得てこそ彼等の協助は生活圏に入り実を実らすまでになる。ようするに結果を残す為には天と私の関係だけに留まっていてはならず、一方で天の願いがあり、一方で霊達の復活と救いへの渇望があり、その仲保である私を確立することで結果を残せる。
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