2014年10月28日火曜日

今日の想い 804

原理を知って霊界について知るのはいいが、霊界に行けば自動的に永生するものと思っている。はっきり言って誤解だ。真の愛に繋がってこそ永生論理は立つのであり、死んであの世に行けば誰でも(どんな霊でも)そのまま永生する訳ではない。では真の愛に繋がらず死ねばどうなるのか。霊界に於いても死を経験する。地獄で永生を希望しないからだ。良心的に生きれば確かに中間霊界には留まるが、しかしそこで永生するのでもなく永生したい訳でもない。それは愛をまともに呼吸できない苦しさから、愛の呼吸器官を準備する為に再度の地上生を生きて霊的器官を得たいからだ。その苦しい感覚を地上で例えるなら、負債の大きさに心が苦しいといった感覚を数倍化したものを想像するといい。霊界に行けばみ言葉の審判、愛の審判、心情の審判があるが、み言葉を正しく受肉しなければ霊界で存在する足場がない。自己中心の愛、偽りの愛に生きれば霊界の呼吸が難しくなる。神様の心情を体恤しなければ霊界の光を受け取れない。光を受け取ろうとしても焼け焦げるからだ。結局足場もなく息も絶え絶えの陽の光の届かないところ、地獄に留まらざるを得ない。しかしそこで永生するとなると救いは永久に存在しない。よって地上の死があるように霊界の死がある。霊界の死をもって再び地上に生まれなければならない。この論理が原理と相反するか。それは生という概念を正しく捉えているかどうかに依っている。この地上で生と思っている生の観念で霊的な生を捉えている。永生が霊的な生に関して言われているのは明白で、それは誰であっても地上の生には限りがあるからだ。しかし限りのある地上の生と同じ感覚を霊的な生について考えるときも当て嵌めている。上に記した、「真の愛に繋がってこそ永生論理は立つ」とのみ言葉があるように、そのようにはっきりと語られているから、であれば逆の言い方、真の愛に繋がらなければ永生論理は立たないと言う言い方も正しくなる。御父様は霊界について多くのみ言葉を語られているが、私達の感覚だと誰であっても地上の生を終えて行くところが霊界で、地獄も含めて霊界だと理解しているが、おそらく御父様が永生する霊界という言葉を使われる場合、地獄は霊界とは捉えてはおられない節がある。さらに中間霊界も含まれてはいない。地獄は真の愛が届かず、中間霊界は真の愛に繋がりきれず、そうなると地獄も中間霊界も永生論理は立たない。地獄も中間霊界も、さらに言えば楽園さえも永生論理は立たない(のかも知れない)。真の愛に繋がる永生論理が立たないからこそイエス様は再臨が必要だった。再度の地上生が必要だった。御父様がイエス様の使命を受け継いだということは、楽園を不在(霊界の死を経験)されて再臨されたイエス様の地上生を勝利する為に生きた期間があるということであり、霊人達の再臨協助という内容は、霊界に足場を置いて地上の協助相手に何かを届けるというより、霊界の死を経験して再度の、或いは再々度の地上生を私と共に生きていると言える。それは生まれては死に、死んでは生まれるという流れ溜りで枯葉が回転し続ける輪廻転生的な地上生だったものから、再臨協助して高次への縦的段階を上って天国人になる為の再臨地上生になったと言うことだ。

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