2014年10月6日月曜日

今日の想い 795

食口の多くはクリスチャンではなかった。だから再臨のメシヤという概念と彼を待ち望む感覚は原理を受け入れることでの受け売りでしかない。あたかも再臨主を待ち望んでいたかのような錯覚を覚え、たとえ御父様こそ再臨主だと信じるとしても、原理を聞いて初めて再臨主の言葉の意味を知ったのであり、よって概念までは受け取れずに錯覚の域を脱しない。再臨主への思いが錯覚であればメシヤ信仰も錯覚だ。み旨を歩む過程でどれほどの者が錯覚から信仰の本質に目覚めただろうか。再臨主という概念は聖書を生命視し、クリスチャンとしての信仰路程を歩んでこそ再臨主の概念が備わる。それでは真の父母という概念は私達の中にあるだろうか。父母という概念は世界人類共通のものであり、父母という概念が備わっていればそこから真の父母という概念への道もある。しかし真の父母の概念は偽りの父母があるからで、真の父母の概念を取り出す為には偽りの父母、即ち偽りの父母からでた堕落した存在であることを理解しなければ真の父母の概念は探し出せない。罪を自覚すればするほどに救いへの渇望があるわけで、偽りの父母に対する認識があればあるほど真の父母への認識が明確になる。クリスチャンとして再臨のメシヤを待ち望んだ立場でもなければ、偽りの父母から生まれ罪を引き継いでいるという堕落意識も薄ければ、私達はどのような御父母様として受け入れるのか。歴史的何の用意もされずにピックアップされた私達にとっての福音中の福音は「心情」という言葉だと私は思っている。心情の因縁によってこそ再臨主であり、真の父母であり、さらには万王の王であられる御父様と、何もわからない私達の関係性が確かなものになる。ユダヤ民族にとってイエス様がもたらした霊的で本質的な光は彼らの概念の辞書の中にはなかった。いわば律法に従わないイエス様の心魂しか見えず、より霊的本質的新しい光がもたらされ発するのに関しては盲目だった。クリスチャン達にとっての御父様も同じだった。彼らの再臨のイメージからは大きくずれていて、それ故に霊肉の救いをもたらし新しい世界をもたらすほどの高度の光、真の愛の光に対して盲目だった。私達の多くは心魂の光も、霊的光に対しても勿論盲目であったけれども、御父様の袖を掴んで離さず付き従ってきた。付き従ってきて価値もわからずに祝福を戴きみ旨に歩んできた訳だが、聖和されて掴む袖を失ってしまった。しかし掴む袖はなくしたとしても歩みの過程で受け取ったものがある。苦労に次ぐ苦労の連続であったけれども、苦労を通して心情を受け取った。神の心情を受け取った。真の愛の光を受け取れる目はこの心情にあるのであり、神様の心情を受け取ることで用意される。人類解放の祭物である統一食口を苦労に次ぐ苦労の塩で漬物にして、人間の霊的素材の本質が浮き彫りになってくる。私達の中には確実に真の愛の光を受け取る目が用意されている。真の愛の光の光源がどこにあるかを真の統一食口は見ることができ知っている。山羊族の食口は背を向けても、羊族の食口は真の光の光源を見て、知って、対して、受け取っている。

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