2014年10月8日水曜日

今日の想い 797

愛が愛らしく存在するために、という説明が原理の力より愛の力が強いものである理由として記されている。本来原理で創造された人間は愛で主管される。原理で主管されるものであれば人間の自由性など存在しない。愛で主管されるから自由性が存在するようになる。愛が愛らしくという言い方には愛によって原理をも曲げてしまう、という、愛の原理に対する主管性、自由性を謳っている。堕落は当然、原理の力によるベクトルに愛の力が横から無理押しされて生じたものだ。論理的で機械に見るような無表情な表現で一貫されている風な原理だが、堕落論に記されているこの表現に触れた時、私の原理に対するイメージは大きく変わった。原理原則の機械的なものが根源にあるのではなく、言い方は不埒だが愛の秘密性が根源にあったという安堵だろうか。それは堕落した男女の愛の秘密性のみならず父子の間の愛の秘密性でもある。私に取っての堕落論は読めば読むほどに、歴史的秘密にされていたエデンの園での神様とルーシェルの愛の駆け引き、エバという愛の果実の奪い合いの一大叙事詩が繰り広げられ、それぞれの息遣いが論理的言葉から溢れ出し圧倒される。堕落論の中に入ると、愛の貴さも、愛の穢れも、そして愛の秘密性と愛の独占、さらに愛による主管や愛の自由性、甘い愛であったり苦い愛であったり、ありとあらゆる愛のイメージが広がっていく。そういったイメージが本然的なものだけではないことはわかっているが、だからこそ「愛が愛らしく」という言葉が成立すると思っている。人類の内的霊的進化に芸術の果たした役割は大きかったけれども、それは善を表現したものだけではなく、触れさせたくないようなものを表現したものもまた逆説的に進化に寄与している。芸術は愛の申し子だから「愛が愛らしく」あるように芸術もまた芸術らしくある。私達が愛という言葉を使う時、愛らしいと言えるような愛の観念を抱いているだろうか。何々しなければならない、為に生きなければならないと言うような、戒律的な観念が私達の中にある以上、蕩減時代を越えて愛の自由性の中で、愛の呼吸をするような愛の存在とはなっていないだろう。愛とは名ばかりの、愛という名の心魂の牢獄から解放されて、東西南北の愛の呼吸、春夏秋冬の愛の呼吸、暖かい包み込む愛も呼吸し、涼しい癒しの愛も呼吸し、暑く燃える愛も呼吸し、冷たく厳しい愛も呼吸する、そんな愛の自由人になってこそ私は真の愛の国の住人になることができる。

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