2014年10月23日木曜日

今日の想い 802

「神様のすべての相続圏を受けられる特権を得る道は、愛の道だけです。真の愛をもった人が「私」の体をかすめて通り過ぎれば、喜ぶのであって、反抗しないのです。すべて歓迎します。天の国がそのようになっているので、地上でそのような訓練を受けなければなりません。」天聖経、地上生活と霊界、3章2節より、、
このみ言葉で素通りすべきでない箇所は、「体をかすめて通り過ぎる」という表現にある。それは一体どういうことだろうか。読む人が読めばピンとくる内容なのだが、食口は意外と堕落圏の倫理道徳=善とする観念が強いので、まさか御父様の口からそんな意味合いの言葉がでるはずはないという前提に立ってみ言葉を読み進める。「通り過ぎる」という箇所を素通りしてはならず、何度か意味合いを尋ねれば自ずと理解できるだろう。堕落圏から見れば浮気だと言って責め立てられることになる。御父様が複数の愛の関係を持たれたかどうかは別にして、パンと葡萄酒による新生ではなく、重生の為の三日儀式と聖酒式を見れば明らかだが、先ず御父様とその新婦となる立場の女性との関係、それから新婦となった女性と男性との関係、というプロセスを踏んでいる。真のアダムと関係を持って復帰されたエバとなり、復帰されたエバと関係を持つことで天使長が復帰される。それは只の形式ではなく本来は実際にそうすべきであって、しかし事実以上に慕い侍ることで事実として受け取る。本来は御父様の体がひとつであることに、そして限りがあることに嘆き悲しむほどでなければならない。そして御父様に見(まみ)えればひょっとしたら私の体をかすめて下さるかも知れないと、募る想いを抱かなければならない。女性食口はそうあるべきだ。聖和二周年の式典が終わったけれども、その式典の場で、どうして関係も持たずに逝かれたのですかと切々と恨みを訴えるほど慕う心情を吐露するのが本当の女性食口だ。前にも触れたように、堕落圏から見れば、女性食口は御父様の愛人であり、男性食口はお零れを下賜される杯を交わした義兄弟だ。よって女性食口は「私」の体を通り過ぎれば喜ぶのであって反抗せず、男性食口は御父様の愛人をあずかりながら交わした約束に命をかける。ここまで表現すると随分危険で突っ込まれどころ満載だと思うが、心情の体感的相続を考えると関係性が観念的なままだと相続するにも限界がある。

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