2014年12月28日日曜日

今日の想い 825

何とか峠を越して落ち着いてきたので、ベッドに横たわる妻をおいてアメリカに帰ってきた。妻は免疫抑制剤のせいで感染症に罹りやすい。罹ると劇症化しやすいのもよくわかっていて、今までもそうだったが、今回は本当に危なかった。しかしそれでもアメリカの大雑把な治療と異なり、丁寧に的確に、さらに日本人の体質に合うように治療してくれて日本の医療サービスは流石だと思った。それもあって血流感染の敗血症も何とか治まったのだが、大病に変わりはなく、動けるには暫くかかりそうだ。しかしながら早く帰国しなければ、任せきりになっている店にしわ寄せがかからないはずがない。誰か面倒見てくれる者はいないかとあれこれ思案してみたが、誰も思い当たる人は見当たらない。それでも兎に角一旦は帰るしかなかった。一人残すのに後ろ髪引かれる思いはあったが、どうにも仕方がなかった。溢れる心配を捨て置いて、貯めてしまった山ほどの仕事をこなすために帰ってきた。店の支払い、従業員への給料、本来ならブックを見ている妻がやっていて、だから私が見ても勝手がわからず、さらに一人残したことへの心配もあって途方に暮れてしまう。わからないままに少しずつ仕事をこなし、散らかり放題のオフィス代わりのリビングを片付け、洗い物も済ませ、ゴミ出しもして、そして強い眠気を覚えた。時差ぼけのせいなのか、それとも看病疲れの為か、心配でまともに眠れなかったのに急に気が遠のいて行って、深い眠りに誘い込まれた。昏々と寝続けた後、おぼろげに周りに目をやると闇に包まれていて、物の輪郭が微かに浮かび上がっていた。外が白ける夜明け頃に眠りについたはずが、とっくに一日を終えたようで、時計は夜中10時を回っていた。一日が完全に飛んで失せてしまい、浦島太郎の気分だった。店がどうなっているのか心配だったけれども、マネージャーに電話するのが憚られた。全てを投げ出したまま寝入ってしまったことへの気の緩みに負債を覚えたからだ。放心状態でソファーに暫く寄りかかり、見慣れた周りの景色を再度確認すると、その体制のままで内面の整理を始めた。今の私の心の状態、失ったものと失おうとしているもの、取り戻すものとしっかり掴んでおくもの、見えないものと敢えて見ようとしないもの、この数週間で起こった大波乱によって、決められた方向に流れていたもの全てが掻き乱されてしまって、その整理にそれ相応の期間が必要で、一日二日で取り戻せるとはとても思えない。まともに動けない妻を迎えに行かないといけないと、その思いがしこりの様に内面に居座っていて、それが片付かないと次のどんな整理も采配も意志できるとは思えなかった。店のことも含めてより公的な意識を持つべきなのに、度量の狭さに愕然としながらも、しかしそれが今の私の現実だった。祝福を受けて、祝福家庭であることへの誇りというより、私の意識は実は選ばれし者としてのこの世的な階級意識とさして変わりはなかった。祝福家庭であることへの階級意識など百害あって一利なしだ。誇りと階級意識とは異なる。誇りは謂わば仰ぎ見る主体に対する対象であることの喜びだが、階級意識は私自身を主体として胸を張る自己満足だ。慕い侍ることのできる主体を与えられているからこそ、誇りが持てるということがこの年になってやっとわかった気がした。誇りではなく自己満足のエリート意識に過ぎなかった。

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