2014年12月27日土曜日

角の生えた食口がいる

私達は御父母様に対して私達なりのイメージが備わっている。イメージとは本質そのものではなく、そうあって欲しい、そうあって当然だというフィルターを通しているのであって、そのイメージそのものを本質として基準にしてしまうと誤解が生じかねない。イメージを壊される場面において私達なりの間違った判断をくだしてしまう。御父母様一体圏の本質を私達は理解しているだろうか。仲が良ければ一体であり、仲が悪ければ一体圏にはないといえるのだろうか。確かに御父様は御母様に対して公的な場で苦言を呈されたのかも知れない。いや、断罪されたのかも知れない。その場の張りつめた空気、その場にいた誰もが覚えた心苦しい空気は映像からでも察して余りあるが、だから御父母様は御母様故に一体圏にないと決めつけていいのだろうか。決めつけてしまって私の救い、果てには人類の救いはどうなってしまうのだろうか。それで私達は納得し、御父様の言い分に立って御母様に声を荒げることを良しとして、畏れ多くも御母様の悔い改めを迫るのだろうか。御父母様によって生み変えられた私達でありながら、更に言えば御母様を通過して生み変えられた私達でありながら、その御母様を否定するなら、重生した私達の存在などあり得ない。要するに祝福を否定して、私達はただの一介の宗教の信者に成り下がってしまう。であればわざわざ人類の蕩減を背負うほどの苦労を超えてきた意味は一体何だと言うのだろうか。御母様批判に傾く多くの食口は、それ故に重生を否定し、祝福を否定する自己破壊への道を辿っている事実を知らない。霊的無知とは何と恐ろしいことだろう。御父母様一体圏のイメージを壊されるという、それは自らの思い込みでしかなかった御父母様に対するイメージを壊されたという恨みで、はからずも培ってきた私の霊の柱を自らで壊してしまうという愚かにも程がある行為に走っている。母親と子供は一体だ。子供は母親の体からできているので生まれながらに一体だ。だから子供は父親が母親をなじれば心穏やかではいられない。母親が父親をなじるのも心痛いけれども、父親が母親をなじるその時の子の感情はその比ではない。私達は御母様を通過して生まれた存在だ。御母様と私達は一体圏にあるという感覚は、御父様が御母様を責める時に、痛みとして覚えるものから感じ取れる。その感情がないと言う者は、では一体誰が、何が、私を産み落としてくれたと思っているのだろう。御父様から直接に分身した私だとでも思うのだろうか。私は内的に霊的に深く入れば入るほど、御母様の胎の暖かさを覚える。天の御父様だけでなく、天の父母様であることにかつてない安らぎを覚える。御母様は批判の矛先を向ける食口に言及されると、み言葉がわかっていないからだと言われて寂しそうな目をされる。しかし彼等に対して、哀れな想いは抱かれるとしても恨みの感情は抱かれない。御父様が聖和されて、御母様の時代だと言うならそうかも知れない。御父様は女性時代が来ると言われたけれども、女性時代は母の艱難の時代だと言われたように記憶しているが私の勘違いだろうか。御母様を私達が支えずに誰が支えるのだろうか。御母様が悔い改めるなら支えてやるとでも言うのだろうか。あるいは御母様の代わりに誰か御父様の相対圏を用意しようとでも言うのだろうか。無知にも程がある。御父様は、御母様を責められるのを敢えて公的な場で見せながら、御母様一体圏にある私達を奮起させようと思われたのは明らかだ。そうでなければ、わざわざ公的な場で言及される必要は全くない。しかし一方で、御父様は御母様の勝利宣言を公的な場でされている。御父母様一体圏を宣布しておられる。御母様に苦言を呈する者達は、天正宮のあの出来事を御母様への勝利宣言の否定、御父母様一体圏の否定として受け取るのだろうか。妻のいないクリスマスの日、妻を既に霊界に送った兄弟のところに行って食事を共にした。彼はこんな話をしてくれた。山羊はエサを与えれば与えるだけ口にする。子供の頃、飼っている山羊がいくらでもエサを食べるので与え続けてしまい、翌朝死んでしまって親に責められたと言う。そう、山羊は食べなくてもいいのに、いや食べるべきではないのに目の前に差し出されると口にしてしまう。消化できないのに腹に収めて消化不良で命を絶つ。私達も消化できない情報を何でもかんでも受け入れれば内的に消化不良を起こす。み言葉をしっかり訓読して消化器官なり、消化酵素を備えなければならないのに、それを蔑ろにしてあることないこと、いろんな情報を無闇やたらに吸収してしまい、それは甚だ山羊の様相だ。羊が群れを離れて山羊になる。他人事ではない。自分だっていらない情報を山ほど取り込みながら、み旨へ向かえない言い訳を探そうと躍起になっている。

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