2014年12月31日水曜日

今日の想い 828 (心情に生きる者となる)

今年も暮れて行く。味わってきた今年の正体が何だったのかを見通そうと、一年を振り返ることで新年への梯子を用意する。時間が余りにも早いので、その流れに逆らえないまま、内的霊的位置を自覚できずに次から次へと外的環境だけが目まぐるしく様変わりしていく。神様の創造理想への意志と、それに呼応する私達人間の責任分担の達成如何によって、摂理が繰り広げられている事実は事実だが、では具体的に私がどう関わってきたのかをどう理解し判断したらいいのだろうか。私達統一食口は復帰原理を知っている。復帰原理を通して人間が神様に立ち返っていく公式があることを知っている。その公式は何を通して行くのかと言うと、言葉でもなく知識でもなく心情を通して行く公式だということを知っている。復帰原理として言葉で受け入れ知識として理解しているけれども、私が摂理を生きている以上、言葉で行くのでもなく知識で行くのでもなく心情を通して摂理を生きる。この心情こそがキイワードであって、心情に立ち心情に生き心情を呈する者こそ摂理の中心的位置で本流を歩む者だ。振り返れば様々な事柄が起こり、様々な感情を味わいながら、その事柄の積み重ねや感情の積み重ねのエキスが歩んできた一年の正体だ。様々な事情環境を私の内的霊的態度によって煮込んでみたりすり潰してみたりと料理しながら、様々に味付けされながら、甘みを加えたり苦味を添えたりされるものをその都度感情で味わいながら、今年一年がどういう人生料理となったかを見ればいい。調味される一つ一つが感情となって表れ、その組み合わせで作り上げた人生料理こそ心情だ。一日には一日の供えるべき心情があり、一年には一年の供えるべき心情があってこそ摂理に生きる統一食口だ。私は私として精誠を込めた心情を差出し、差し出せばそれに応じて天の心情を受け取れる。一年を振り返ってみて、平安であったことを報告し喜ぶのだろうか。神様が平安であられ、御父母様が平安であられるならそれでいいのかも知れない。しかしそうでないなら、平安だったからといって喜ぶ姿勢は、心情を通して生きた一年だったとは言えないだろう。御父母様の御心情を想うならば、平安な私を恨めしく思ってこそ父母と共に生きたい父母の子女になれる。振り返れば痛みを覚える数々の出来事があって、それを味わえたことが本当に感謝であり、より御苦労されてこられた御父母様に、私の痛みなど何でもありませんと言える立場でこそ私は御父母様に顔向けができる。顔を上げて対面すると、お前は何の実績もないのかと責められるに違いないとしても、それでも私の抱えてきた痛み故に御父母様に顔向けができる。

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