2014年12月29日月曜日

今日の想い 826

同じ真の父母を慕い侍りながら、同じみ言葉を学びながら、そうであるなら理解が喰い違い方向性が異なることなどあり得ないはずだけれども、現実問題として食い違い異なってきている。そして両者がお互い認め合えずに相克している。統一教会は範囲を広げながら一つになって行くことができるからこそ統一教会であるのに、一つにさせようとする本体の自体内で分裂しようとしている。そしてこの分裂反応を収拾することに手を焼き、時の流れに任せてなるようにしかならないとする諦めさえ見え隠れする、かのように見える。どうして異分子が生じたのか。どのように生じたのか。私達が責任を果たせていないから、そうならざるを得ない摂理としてそうなったのか。普通の私達の既存の意識はそう考えるしそう捉えるだろう。そう捉えて当然だろう。しかしその現実を事実と見るのか、あるいは現実とは異なる現実を越えた事実があるのか、私はどちらに存在基盤を置くのかによっている。私達が御父母様一体圏を理解していないように、統一教会がその都度打ち直されて来た心身一体圏を理解していない。相克している現実は現実だとしても、現実を越える核としての霊的心身一体圏が立っている。それは現実によって揺らぎ左右されるものではなく、現実を越える霊的事実として立っている。そうであるなら現実は現実として対処しながらも、事実からすれば現実は影に過ぎず、事実を地上世界に確立する為の通過すべき路程であったと未来の私は理解するはずだ。あの分裂が統一の事実を地上に落とし込む為に必要であったと未来の私は見通せるはずだ。天地創造過程にあってもその段階段階で相克があり、しかしその相克がなかったならば光をより光たらしめることはできなかった。私達が認識する光は、段階段階で鍛え直されて今ある光を光としている。人間のこの肉体様相も、段階段階で鍛え直されて今ある肉体様相を戴いている。愛が真の愛として鍛え直されなければ、愛は愛でなくなってしまう。一体圏が真の一体圏として鍛え直されなければ、結局は心と体は別物だとして心身一体圏を完成できず、男と女は別物だと夫婦一体圏を完成できない。現実がどれほど悲観的に見えたとしても、それは影でしかなく、現実を越える事実があり、事実は完成完結完了した中心的核が、御父母様一体圏の中に、御父母様一体圏に抱合される天宙一体圏の中に存在している。その霊的事実を霊的感性が備わっていなければ見通せない。私達はこのような時にこそ祈って祈って祈り抜くべきだ。もっとも威力を得るものとして祈りがあると御父様が語られたように、新しい歴史の環境創造の先端に立つ者は祈り抜いた者達だ。光に立つのか、あるいは影となって光を際立たせる立場に留まり、果敢に光に立つ者から位格を落とすのか。反対し、批判し、分派を起こし、彼等が躍起になって叫べば叫ぶほど位格を落とし、それと相対的に本流に走り続ける者は位格をさらに上げて行く。新しい歴史をついに私の歴史が始まったと小躍りする者達は、この混沌の現実の中で新しい歴史の覇者となって登壇してくる。

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