2015年7月22日水曜日

今日の想い 866(一体とは)

一体であられる御父母様からすると、御子女様達をどう見ておられるのだろうか。反旗を立てたり、御母様を批判されたり、普通の認識からすれば異常に思える。御家庭に於いてひとつになることを示されねばならないのに、ひとつになるのではなく逆に離れている。御父様の一体という概念と、私達の描く一体という概念が180度異なるのだろうかと、今の御家庭の現状に蓋をして当たらず触らず無視してそれでも一体を言い続けるのかと、御は誤であったと早々に決着をつけて信仰を捨てるのかなど、私達の内面に於ける葛藤はかつて無いほど激しさを増している。御父母様に対して御子女様達がそうであるように祝福二世達も一筋縄ではいかず、親としてどう捉えて対処したらいいのか、教育の失敗なのか親の条件の無さや不信仰からくるものなのか、一体圏という言葉に溜息が出て虚しさを覚えるほどに内面は焦燥しきっている。私達は一体という言葉を意志の言葉として捉え直さなければ、落とし穴を益々深くして身動きが取れなくなる。私自身も相当に悩んだ。今現在も悩み続けている。み言葉によって救われた喜びと感謝が大きければ大きいほどに、子供のみ言葉離れは親の地獄だ。天国に行くつもりが生きて地獄に落ちている。御父母様が御子女様達をどう見ておられるかと私達が祝福子女達をどう見ているかは異なるにしても、親の思うようにはいかない現状はどちらも同じ状態としてリンクしている。一体という言葉を意志の言葉として捉え直すとしたが、御父様が一体という言葉を使われるときその言葉に裏付けられている心情を見なければ、御父様と同じ概念とはならない。一体という言葉に隠されている神様の心情、恨を見るということだ。父子一体とはかけ離れ、堕落して手の届かないところに行ってしまった耐え難い心痛を見るということだ。一体という言葉をイメージとして知で捉える限りは一体になっていないことへの裁きが襲い掛かるが、意志として捉えると神様の耐え難い心痛を同じ親という位置で味わい、一体への道を神様と模索していく、神と共に歩む自分を見出せる。長男の御子女様はあれほどにハチャメチャな生活をされながら、しかしその晩年はというと内面に於いて誰よりも御父母様を思われ、愛され、御父母様の心情を汲まれている。霊界では天国の門を主管する位置におられるほどで、それは犯した外的罪で裁かれるのが霊界ではなく、霊界は培った心情世界であることの証だ。おそらく子女は親の信仰観や世界観を超えたところにいて親からは理解できない。親の器では測れない観を担って生まれ出でたのかもしれない。またそうでなければ天地の発展と更なる創造はないのだろう。自分自身を裁きの目で見るのでもなく、子供を裁きの目で見るのでもなく、そこに味わうべき心情があり、気付くべき心情があり、天からの心情相続、そして子女達への心情相続それこそが一体圏だ。そしておそらく御子女様達も御父母様の理解を超えている。しかし御母様は子供達の帰ってくるのを信じておられる。理解を超えているけれどもそれでもただただ信じておられる。とても一体とはいえない現状をして御父母様への信仰を揺らすのではなく、真の愛でもって、犠牲的愛でもって家庭一体圏への道を歩まれる並々ならぬ御母様の意志を見て、私達は御父母様への信仰をさらに強固にすべきだろう。御父様の一体という言葉は、ひとつになろうとする強固な意志に貫かれた言葉であって、仲のよい家族爛漫のイメージを描かせて一体という言葉を口にしてはおられない。

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