2015年7月28日火曜日

今日の想い 867(原爆記念日)

この7月もあっという間に過ぎ去っていく。そしてまた8月6日の原爆記念日がやってくる。今日までの人類歴史の中で、これほどの瞬間的な人為的殺戮は類を見ないだろう。犠牲になった20万の魂は、棲家の肉体を奪われ、暫くその行き場所を見つけられずに地上をさまよっていた。身に降りかかったこの運命の意味を納得できなければさまよい続けるしかない。起こったことが人為的であれ自然的であれ結果に対する原因があるわけだが、人間が外的科学的原因を問うのではなくその運命の原因を問うのは内的霊的存在として当然のことだ。蕩減法によるなら身に降りかかった結果の原因は自分の中に見出せるだろう。しかし、愛する者を苦しめられ奪われた近親や被害者本人にしてみれば、蕩減原則によってこうなると、自分で見出すのでなく運命の支配者に告げられるなら、それは断罪されることであり、そこに愛の神も慈愛の仏も見いだせなくなってしまう。しかし犠牲になった者達がその恨みを膨らませて悪霊になるわけではなく、事実は自分の犠牲をしてどのように人類の救いや幸福に貢献できるかを模索するようになる。これこそが人間が運命の裁き主の支配を超えて、自分という存在は神様からきた存在であることを証している。運命の結果にどれほど抗おうとも、否定しようとも、後ろ向きの意志のベクトルではますます自分を悪魔の手に委ねることになるが、私の霊と魂の昇華はより全体の為に、より未来の為に、如何に貢献できるかという前向きの意志のベクトルによってなされる。犠牲者への追悼にはその配慮が必要であり、苦しかろう悲しかろうではますます彼らを地獄へと貶めることになってしまう。私はあの平和記念館が大嫌いだ。冷たいコンクリート打ちっ放しの建物もそうだし、足を踏み入れればホラー紛いのマネキンやおぞましい写真が陳列されていて、恰も彼らを地獄に閉じ込めて囲っているようで犠牲者に対する何の敬意も感じられない。愛によって平和を築こうとするのではなく、恐怖と不安によって平和を築こうとしている。それは平和とは名ばかりの偽りの平和だ。死んでしまってその存在を無にした唯物的見地のみで展示されている。犠牲者を慰労しているようで実のところ彼らをとことん貶めている。地上ではピカドンで肉体を溶かしたけれども、天上ではその犠牲的精神となって光を放つ存在になっている。彼らの放つ光が核の抑止へ、平和への意志へとなって働いている。私が復帰された当初の広島教会は原爆ドームの近くの正に爆心地に建っていた。確かに当時は様々な悪霊現象も起こったし、ただならぬ圧迫感から犠牲者達の恨みを感じ取ることもできた。しかしたまに帰省して訪れる今の広島の町は実に明るい。光り輝いている。蕩減的穴埋め感情から責任分担的創造感情を肌に受け取る。

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