2015年7月2日木曜日

今日の想い 858(批判のみに集中する受動的信仰)

教会幹部や責任者、教会長に対する批判が目白押しだ。口角泡を飛ばす批判ブログに目を通せば、先天のカインアベル観べったりの受動的信仰から抜け出せない彼らの甘えが見えてくる。批判の意識にはみ旨に対する自分の責任がありながらも、そこに蓋をしてしまって、位置につく者への責任転嫁で自分の責任を軽くしようとしている。一言あるなら直接中心者に話してこそ解決ができるのだけれども、日本人としての体質が中心者に対してものが言えない状況にさせている。その中心者も更に上に対して同じようにものが言えない状況にある。しかしものを言わないことが絶対信仰でないことは明らかなのだが、それでも口を開かないのであれば信仰に名を借りた自己抹殺だ。自己否定は堕落的私を否定するのであって、私自身を亡き者にするのは自己抹殺だ。霊的自殺だ。先天時代は良しとして、ものが言えない状況で言われるがままに歩んでいた後天時代のここ数年、その状況で自分がどれだけ内的に外的に成長しただろうか。全部捧げてもそれでも願いからは程遠い状況では、外的に実力を備えることは困難だということは理解できる。しかし内的にどれだけ心情を復帰し、より御父母様との心情因縁を築いたかという点についてはどうだろうか。内的な成長もない、外的な実力もつかない、それで奇跡を信じ天運の到来を期待しているなら雲に乗ってくる再臨主を待ち望むのと何ら変わりはない。私達が期待しているような奇跡は天地が逆になってもおこらないし、天運を期待している時点で自己責任を逃れようとしている。この生殖器が罪を犯すのだけれども、生殖器を取ってしまったら元も子もない。それと同じように、ものを言いたいけれども言わなかったというならまだしも、去勢されてしまって言いたいことがあるという精神を失っているのであれば唯識ことだ。御父様は私達に氏族メシヤの位置を与えてくださった。氏族メシヤの権限と言い換えてもいい。更に私達は真の父母の名ではなく自分何某の名で報告祈祷をしている。天に通ずる直接のパイプを持っているということだ。それは中心者に対して物申す権限など当然含まれている。物申して聞く耳持たずならそこの教会に留まる意味を再考した方がいい。教会に留まらずとも氏族伝道もできるし、家庭単位の祝福権限は与えられていて問題ない。絶対信仰は先天時代の受動的な姿勢では絶対成り立たない。兄弟一人残らず能動的信仰を備えるべきだ。

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